海から来た男・本文サンプル 「誰だぁ!」子どもは剣を横に薙ぎ払った。低い木立の間を、鋭い切っ先が通り抜ける。さっきまで何の気配もなかった庭に、男はいた。背の高い黒髪の男。少し焼けた色の肌、広い肩幅に長い手足、スタイルがよくて均整のとれた体つき。燃えるような赤い瞳、セクシーな口元は記憶にある通りの姿だった。額と左頬に何かの傷跡が走っているのを、子どもは初めてそれと認識した。昔は男の雰囲気にのまれていてまったく気がつかなったが、今なら子どもはそれが、ひどい凍傷の跡であるとわかった。闇の中から出てきたような黒い服、ネクタイを緩めたラフな格好だったが、だらしなくは見えない。「元気でやってるようだな」「…あんたかぁ」「覚えているか」「……なんとなく」子どもは振りかざしていた剣を納めるかどうか少し考えた。ここは父親の屋敷の裏庭、普段めったに人が来るようなところではないが、しかし勝手に他人が入ってくることができる場所でもない。男は父親の知り合いなのかもしれないが、今父親は家にいないのだし、客人ならばもっと屋敷の中に人の気配があるはずだ。男のことは子どもは知っているが、しかし男が誰なのか、子どもは全然知らないのだ。剣をしまうべきか否か、子どもは判断することが出来ない。だが、もしこの男が自分や父親を害する人間だったとして、自分が抵抗して勝てるだろうか?答えは簡単だった。無理だ。とてもではないが勝てる相手だとは思えなかった。だったら抵抗するのは無駄なことだった。子どもは最近ようやく手になじんできた剣を、木陰に置いてあった布で軽く拭って、ていねいに鞘に入れた。さすがに少し不安だったので、それは手に持っていた。去年のクリスマスに、何か欲しいものがないかと初めて父親に直に聞かれて答えたものだった。引き取られてからなんどもプレゼントは貰っていたが、父親から直接、何が欲しいと聞かれたのは初めてだった。「剣をしまってもいいのか?」「あんたに抵抗したって無駄だろぉ」「わかるか」「わかるぜぇ。あんたに勝てそうにないってことは」「そうか」男はとてもうれしそうに笑った。笑うとなんだかやけに子どもっぽく見えた。子どもは自分が思っているより、男が若いことに気がついた。初めて会ったときは自分が子どもだったから、本当はまだ成人していなかった男を、大人だと思ったのだろうか。四年前、母親の葬式に来たときと、男はそれほど年を取っていないように思えた。「久しぶりだな」「そうか。…久しぶりなのか」「そうだぜぇ。葬式で会ったきりじゃねぇか」「そうか…おまえには、そうなんだな。少し大きくなったみてぇだな。今、何歳だ?」「今度十二だ」「そうか、じゃあ確かに、大きくなったんだな」顔を見るたびにこの男は同じことを言うものだ、と子どもはおもった。そんなことは他の大人も子どもに言う。よくいう言葉だったはずだ。なのに、子どもはそれがひどくうれしくて仕方無かった。男の言葉で自分の成長を寿がれると、何かとてもとても嬉しくて、会ったことも感じたこともないが、神様の祝福というのはこういうことなのかもしれない。ただただうれしくてたまらない。体中の細胞が歌を歌い始め、踊りだしてしまいそうだ。「そうだろぉ! うんと背が伸びたんだぜぇ!」「そうらしいな。見違えるな」「えへへ」男に褒められるのはうれしかった。胸の奥がじんと熱くしびれるようだった。 [2回]PR