暴風警報の恋人たち 本文サンプル

夏コミ＆グッコミで出した「暴風警報の恋人たち」
本文サンプルです。



「テレビつけるかぁ？」
「そうだな」

　宿について初めて、黒い男が口を開いた。立ち上がって上着を脱ぎ、先にクローゼットを開けていた白い男から受け取ったハンガーにそれをかける。まだ少し湿気が残っているようなので、タオルで肩や背中の水分を叩いて拭きとった。
　白い男は部屋の中を歩きまわっていた。先にクローゼットを開け、中のものを全て外に出してから体を中に突っ込んでいた。それから引き出しを開けてひっくり返し、底を確認してから体を中に突っ込む。それが終わったら乱れ籠を中に戻し、次に部屋に備えつけられた茶道具入れを開け、中身を全部出して入れ物をひっくり返して確認する。次に茶道具を全部広げ、ティーパックを一つづつ灯りにすかせる。
　何も異常がないことを確認したら次はテレビの下に置いてある金庫を確認し、姿見、ゴミ箱、押入れ、それから障子を開けて窓を確認する。全部の窓を開けてみたが、部屋は本館の角で、窓は南と西に二面あった。障子の先に小さいスペースがあり冷蔵庫とソファセット、その向こうの窓ガラスを開けて外を確認するが、雨がひどくて何も見えない。
　冷蔵庫の中は空っぽだった。そこに買ってきた水と酒を入れたあと、今度は入り口に戻って洗面所とトイレで同じように確認作業をした。
　黒い男は上着の水分を拭きとったタオルをかける場所を探す。見当たらないので外に出て白い男に声をかけると、こっちにあると返された。
　洗面所で黒い男は自分の顔を見た。それから備品の品揃えをさっと確認してから、寝室に向かった男に声をかける。

「スクアーロ」
「なんだぁ？」
「風呂に入ろう」
「寒いのかぁ？」
「濡れてんのが気持が悪ィ」
「すげぇ湿気だもんなぁ」

　ひと通り部屋を見て回ったスクアーロに、浴衣とタオルを差し出せば、気が早いなぁ、ボスさんはよぉ、とスクアーロがにやっと笑う。

「◯日に発生した台風八号は以前勢力を失わず日本列島を北上しています。午後九時の気象庁の発表では……」

　つけていたテレビからは台風情報が流れている。
「こっち来る時によぉ、ラジオであんましょっちゅうニュースが入るからよぉ、なんかテロでもあったんかと思ったぜぇ」
「日本じゃテロよりひでぇもんだろ」
「確かになぁー。こんなに派手に雨が降るったぁ驚いたぜぇ。夏なのになぁ」

　そう言いながらスクアーロはベルトを外し、パンツを脱いでハンガーにかけ、シャツも脱いで浴衣を着る。長い手足が手際よくするすると浴衣をまとうのは、まるで魔法でも見ているよう。

「おまえは着替えねぇのかぁ？」
「…そうだな」

　情人の着替えをなんとはなしにながめていた黒い男は、促されてようやく自分もシャツを脱ぐ。
　やわらかくてコシのあるカフスボタンを開き、襟から順番にボタンを外す。日本に来てすぐに買ったアンダーシャツだけを残して脱げば、見事な上半身に縦横に走る皮膚の引きつれた跡が見えた。背中に肩に、腕に走る無数の傷。それが手早く浴衣の薄い生地に隠される。上背も身幅もある黒い男が着てもつるつるにはならない浴衣は、外国人用に大きなサイズのものを準備してあったようだ。

「こんなに暑ぃのになんで肌を隠すんだ」
「暑ぃからだろぉ」
「そうか？」
「湿気があると汗が乾かねぇからなぁ。汗を吸い取るもん着てねぇとかえって暑く感じるんだよなぁ」
「そんなもんか…？　まぁいい、行くぞ」
「おう」

　二人とも脱いだシャツとパンツをハンガーにかけ、こちらはクローゼットにしまう。着替えの下着と鍵を手に持って部屋を出れば、廊下はしんと静まり返っていた。

「客が少なさそうだな」
「見たところ一組しかいなかったぜぇー。女が四人、年は若くねぇ。車で来てたな」
「なるほど」

　下駄箱に入っていた靴の数や色、形や使用感を手入れをしながら見てきたらしい。

「風呂どうする？」
「どうするとは？」
「大きい方に入るかぁ？」
「誰もいねぇだろ」
「そりゃそうだなぁ」

　そんなことを言いながら並んで宿の廊下を歩く。確かにすぎる部屋の中に人の気配はない。途中で床の材質が変わったので新館に入ったのだと知れた。こちらにはかすかに人の気配がする。
　角を曲がると湯の匂い。今日は雨でだいぶ薄らいでいるが、普段は、もっと濃厚に匂うだろうことがわかった。

「楽しみだなぁ」
「おめぇは温泉が好きだな」
「ボスさんだって好きだろぉ」
「まあな」

（中略）

　そんな恋人が一番、手放しで喜ぶのは日本の温泉だ。風呂が好きだと知ったのはいつだった？　二人で旅行するようになる前のことではなかったか、あれはいつだったのか――そんなことをぼんやりと思い出しながら湯を肩にかけ、体をタオルで拭う。

「背中流そうかぁー？」
「あとでいい」
「温まってからのほうがいいかもなぁ」
「力入れすぎんだ、てめぇは」
「気持ちいいだろぉー？」

　返事がないのはいいということだ。風呂に入ると自然にテンションが上がってくる恋人に、ザンザスは小さく溜息をつく。

「なんだよー、景気悪ぃぞぉー？」
「おまえが高すぎるんだ」
「だって貸し切りみてぇで楽しいじゃねぇかぁ！」

　大きな浴室は本来男女の使用時間が区切られて切り替わるのだが、今日は客が少ないので、いつでも入ってくれてかまわないと言われている。今日はあと一組しか客がいないのもわかっている。そちらはまだ明るいうちに先に宿につき、とうに食事も終わっているらしい。かすかな気配を探っても大きな動きはなさそうで、激しい雨風のなか宿に辿り着き、とうに眠りの森に迷い込んでいるのかもしれない。
　もっとも、現役の暗殺者が二人揃って、呑気な一般人の気配に気がつかないわけはないのだが。

「そんなもんか？」
「でかい風呂を俺たちだけが使えるってすんげぇーゼータクだろぉー？」

（中略）

「…なんか眠くなってきたな」
「運転が大変だったからじゃねぇかぁ」
「そうだな」

　まだ食事を取っていないせいもあるだろう。空腹なのに体を温めすぎたら貧血を起こしてしまう。

「適当に温まったら出ようぜぇ」

　最後に髪を洗って風呂を出る。スクアーロが髪を洗うのに時間がかかるのはいつものことなので、ザンザスは先に出て、汗がひくのを待ってから浴衣を羽織った。

「おー」

　スクアーロはなんだか妙に間の抜けた顔でザンザスを見ていた。手にしたドライヤーに、濡れた髪のしずくが落ちる。

「早く来い」
「あ、おお、乾かすからちょっと待ってろぉ」
「俺を待たせる気か」
「腹減ったなら先に行っててくれぇ」

　そんなことを言いながらタオルで水気を拭っているスクアーロの後ろに立って、ザンザスはドライヤーを奪いとった。

「貸せ」

　スクアーロは固まって動けなくなっている。
　この男がこうなるのはいつものことなので、ザンザスは気にせず髪を乾かし始める。スクアーロの髪を乾かすのは誉れであろう。
　美しい恋人の髪を乾かし、頭皮に指を差し入れ、濡れた髪を美しく整える作業は楽しい。
　ザンザスはこういうことが嫌いではない。本当は人にされるよりしたほうが好きだ。
　スクアーロはこういう時は黙ってしまう。無駄話もほとんどせず、薄い色の瞳をぱちぱち、数回上下させるだけで、あとはじっと動かず、鏡の中をじっと見つめている。
　その視線が自分の髪をいじる指先に注がれていることをザンザスは承知している。恋に浮かれた娘のような頬をして、けれど瞳は昆虫の標本を隅々まで虫眼鏡で見ている子供のような真剣さで、スクアーロは鏡の中のザンザスを見つめている。
　その視線は心地よい。
　いつになってもスクアーロの視線は、ザンザスの自尊心を満足させる。
　時にはそれを切り裂き、血を流させることもいとわない、鋭く尖った刃である。それがどうだというのだろう。
　スクアーロのまなざしがザンザスに息を吹き込むのは変わらない。今も昔も。
　ザンザスの手の中で、日本人好みの小さなドライヤーはおもちゃのように見える。
　スクアーロは自分の髪の上を滑るザンザスの指の動きを、食い入るように見つめている。
　それがあまりに真剣なので、ザンザスはその瞳を見ることができない。