一連托生ってさぁ… さっき日帰り温泉行って風呂に入りながら、このたぎる燃えを忘れないように!!と固く念じながらあったか~い風呂に入っていたのですが(ここんとこ足が氷のように冷えるので助かった。明日の最低気温マイナス予定←一応関東だよ)、そのときに昔大学の授業で先生が言ってた話を思い出しました。中世とか古典の文学やってると必ず出てくる「仏教と衆道」の話(笑)。「一蓮托生」の『蓮』はあの世で生まれ変わった時に釈迦となって座する蓮の花ことで(仏像が座ってるアレね)、そこに同じく生まれ変わるように運命を同じくする、というような意味だったりするんですが、そのネタで超有名なのが「平家物語」の木曾義仲とその乳母子、今井兼継の最後の場面「粟津の渡し」。(滋賀県の粟津、今の琵琶湖の近く)京都を追われた木曾義仲が追っ手に迫られ命からがらみやこを逃げ、木曾に戻って再起を果たそうとするも、粟津で追っ手においすがられ、いよいよここまで…! と思ったところ、乳母子の今井が「大将が首を取られるのはいかにも辱めを受けるようなこと。ここは私が防ぎますから、あなたは先で一人で自害なさってください。自害なさったら私もすぐに後を追って、あの世の蓮の花の上で会いましょう」と言って木曾を逃がして奮戦(このとき木曾は5~6騎ほどで手負い。追っ手はもっと多かったはず)。自害の場所を探していると、ぬかるんだ湿地に足元を取られて木曾義仲は先に進むことが出来ない。その隙に背後から矢が射掛けられて、義仲の額にすとんとささる。義仲は落馬して絶命する。それを戦いながら見た今井は、「ああ、主が死んでしまった!自分はもうこの世には未練はない」と言って刀を喉に突き立てて、自ら落馬して自害する。……という場面を思い出しました。この今井の妹が巴御前らしいです。本妻は別の女のひと。義仲は実の父親を父の兄の息子、つまり伯父さん(頼朝の兄)に殺されてしまい、今の埼玉から木曾へ逃げ、そこで父の部下だった男の家に養われて育ちます。そこで今井の兄妹に会う。妹は巴御前としてともに戦い、みやこを落ちるときも一緒に逃げますが、途中で「義仲は最後まで女を連れていたとされると恥ずかしいから」と説得されて、「では」と追っ手を数人切り伏せてから別れた、という話が確か平家にあったはず。(源平盛衰記かな?)ここで巴が正妻にならなかったのは、正妻の実家の経済力(このときの経済力ってのは兵力とイコール)をアテにしてたからじゃないのかな~という気がしないでもない。そんでもって大学の授業でこの「粟津の渡し」のシーンで、「ここで蓮の花の元で会おう、というのは死してもなおともにあろうという、激しい愛情のあらわれでもある」などとおっしゃったのでそのとき時間は止まった! みたいな。まあそこから派生して蓮の花を同性性交で使う部位を差してみたり、その行為そのものをさして見たりするようになったりしてるんだよな…(寺には小姓と坊さんとの衆道関係があるのは公然の秘密。仏教は女色を禁じているけれども男色は禁じてないからね☆むしろ男同士の契りに肉体関係まで結ばれていると、戦場で戦うときに最後まで味方してくれるだろう、というのもあって推奨されていたのかもしれん)。鎌倉幕府を開いた頼朝は京都生まれの京都育ちで抜けるように色の白い美少年だったらしく(笑)、島流しにあった関東の田舎ではそれはそれは近所の男女の噂の的であったであろーなぁ…(笑)。女との浮名はあったらしいが、絶対頼朝に惚れてしまって部下になったってのもいるんじゃないかと思うんだよなー。ただ頼朝の性概念は京都ベースだったので、もっと粗野でシンプルな関東ベースの性概念は馴染まなかったのかもしれないな~…とは思っている。絶対男に言い寄られているって…!……閑話休題。何がいいたいかというとつまり、『一連托生』という言葉にはさりげなく脈々とつながるホモネタの背景があるのだよと、いう話をしたかっただけなんです……。知っててそれを口にしてるのか剣帝さま!?予想していた山スク&ツナザンフラグが立った――!! [0回]PR