知っていることが幸せだとは限らない 何が足りていないのか、男は改めてそこで気がついた。悲しみだけがそこにあった。あるべき怒りはそこにはなかった。はじめからそうだった。そうだはじめから、ちゃんとあの灰青の瞳を覗き込んだ八年前から、ずっとそうだった。病室の電灯は蛍光灯からつけかえられているはずだった。少しは温かみのある、明るいオレンジの光に付け替えられたはずだった。なのにとてもそうは思えなかった。青かった。壁も天井もカーテンもシーツも床もガウンも肌も髪も指先も。「喋れるか」伺うように聞く。そんな必要はない。青年は昨日までちゃんと喋っていた。その後青年になにかしてはいない。青年をかくまっていた彼らが、何かをなしたのでなければ。青年は起きている。意識はしっかりしている。それはわかっている。目を伏せているが、青年は男が部屋に入ってきたときに間違いなく男を見た。男を殺さんばかりに睨んだ。その灰青の瞳がそうやって男を見るのは久しぶりだった。男は忘れそうになっていたそれを思い出した。「…………」青年はシーツの上でただ横たわっていた。麻酔も鎮痛剤も効きにくい体だったので、体重の割に多くそれを投与されていた。今も意識は戻っているが、体の自由は利いていないのだろう。「気分はどうだ?」「……最高だ、とでも、言うと思ったかぁ…?」「そうだな」男は視線を外さない。青年の瞳はまだうかがいしれない。だがわかっている、男はその瞳がどんな色でいるのかを知っている。「ボスは」そうだ。そう、言うだろうことは判っていた。「まだ寝てる。内臓と喉がやられてるからな、目が覚めないよ」「…生きてるのか…?」「死んだって話はされねぇなぁ」返事はない。ほっと体から力が抜けたことを感じる。たったそれだけで、体が緊張しているのだろう。「……そうかぁ………」昔からそうだった。今でもそうだ。この体のどこにも、魂のどこにも、どうして怒りがないのだろう。彼の主はあれほど、体中から怒りの炎を吹き上げているというのに、世界の全てを憎んでいるというのに、視線も指先も声も背中も、体の全て、魂の全てが世界に対し、怒りをたたえているというのに。力を抜いたその薄い長い体にあるのは、ただ悲しみだけだった。今も、昔も、あのときも、ずっとそうだった。ただ悲しんでいた。悲しみを持っていた。この体は、怒りを知らないのだ。争奪戦の話を書こうとするとどうしても「外野の人」の視線になってしまう。二人の中に入っていく根性が足りてないのかなぁ……。 [0回]PR