SpringBLUE 「ママ」手を伸ばした。誰かに。声が聞こえた。かすかに。手を見た。小さかった。とても。自分の声で目が覚めた。伸ばした手は子供の紅葉の手ではなかった。骨ばった、間接の目立つ、指先のかさついた、大人の、ただの男の手だった。輝きの変わらない指輪だけが光っていた。枕元が冷たかった。今なんといった。今なんと呼んだ。今なんと、口にしたのだ。まだあの女のことを忘れていなかったことに驚いた。最後に会ったのはいつだったのか考えようとしたが、それはあまりに昔だった。一生懸命数を数えた。驚いたことに、それはもう30年も前だったのだ。そんなに時間がたっていたことに驚いた。ほっと、自分でもど驚くほど大きな音でため息をついてしまった。肺に空気が入ってくると、頭がクリアになってきた。ここがどこなのか思い出した。馴染んだシーツ、馴染んだスプリング、部屋の空気、リネンに染みた匂い。目元を指で触る。冷たかった。頭の位置を替える。耳の後ろで髪が揺れる。「あ、……」声はもう、子供の声ではなかった。大人の男の声になっていた。自分の声変わりの前の声など、覚えてもいないはずなのに、どうして夢の中では聞こえてきたのだろう。手を伸ばす。握って開く。すでにこの手は子供の手ではない。すでに多くの死を、他人に預けてきた手だった。それでもまだ、母親のことが懐かしいのか、恋しいのか。寝返りを打てば、まだ隣で恋人が眠っていた。無邪気な顔をして、やすらかな寝息が聞こえてくる。こうして隣で朝と晩、寝る前の最後の顔を見て、起きるときに最初に顔を見るようになって何年たつのだろう。十年は過ぎているはずだ。結局このまま、人の親にはならないまま、死んでいくのだろうと思うけれど。それを寂しいと思うことも、たぶん時々あるのだろうと思うけれど。母親にも父親にもならない人生が、惜しいと思うこともあるだろうけれど。こいつに会えた人生は、悪くなかった、と今は思う。結局は最後に残ったものが勝つ。生き延びていることが、人生ということなのだろう。昔は悪い夢を見ると、必ず一緒に起きてきて、ひどい顔で抱きしめてきたことがよくあった。小さい声で詫びられるのが、悲しいのか、寂しいのか判らなかった。今はもう起きてこない。寝ていることに安心するようになって、起こさなかったことを安堵するようになって、寝顔を見ているとすぐに眠れるようになった。悪い夢もすぐに忘れるようになった。それが対価であり、退化であるかもしれないが、しかしそれでもいいのではないかと、そう思えるようにもなってきた。時間というものは圧倒的だ。一緒にいる時間の蓄積は、そこに感情が伴えば、その質量は相当なものだということが、判るようになった。今朝は天気がいいのだろう。太陽の匂いがする。恋人の寝顔を見ているうちに、眠くなってきた。目を閉じて、少し距離を詰めると、嗅ぎなれた体臭を感じることが出来る。安心して目を閉じる。朝食まで一眠り。ルッスの声が聞こえるまで、もう一度、夢を見ることにしよう。-----------------------------------思ったよりどっちでもいい感じになったような [7回]PR