喜びも悲しみ幾年月(本文サンプル) 「ザンザス、…」口にすれば、それはもう王を称える臣下の声とは異なってしまう。王を乞い憂る吟遊詩人の口調にも似て、そこにはただならぬ恋情までもが滲んでしまう。そんな思いを抱くことを禁忌だと、自分に課した過去もあった。今は? 今はどうだろう。愛の言葉を告げられた記憶はないが、ここ一年かそれくらいは、ザンザスはあまりスクアーロを殴ることしなくなった。ウィスキーをぶちまけられるか、髪を引っ張られるかそんな程度で、物が飛んで来るだけで実際、長いしなやかな脚から繰り出される破壊力抜群の蹴りも、ここしばらく受けていないことに、スクアーロは思い至ってしまう。なんだかみぞおちのあたりがもぞもぞする。居心地が悪い。眠気が又少し遠のく気配がする。眠ろう、そう思いながらまた寝返りを打つ。枕元に置いた携帯を眺める。暗くした部屋の中で、その液晶の画面がてらてら光っている。あ、と思うまもなく、画面が光って着信を告げる。音は小さくしてあるのであまり鳴らないが、スクアーロにはそれで充分だ。スクアーロは耳がいい。呼び出し音はかすかに鳴る程度で充分だ。ヴァリアーの本部以外で、呼び出し音が聞こえなくなるまで熟睡するようなことはない。音色の違いで誰からなのかわかる。信じられない思いで鳴り続けている小さい機械を触る。『プロント?』「あ、…ああ……」電話をかけてきたのはザンザスだった。まさか、と思いながら返事をすれば、懐かしい声が耳の中に流れ込んでくる。「どうしたんだぁ」『何が』「アンタが電話、かけてくるなんて、……珍しいじゃねぇかぁ…」なるべく普通に話そうとしたのに、何故が声が上ずってしまって震えてしまう。何故そんなことになるのかわからないが、喉の奥まで勝手に震えてきてしまう。不審に思われたらどうしようかと考える。そんなことを考える自分がおかしいということはまだわかる。そうだ、少し自分がおかしい。今日は本当にどこかおかしい。声を聞くだけで、こんな。『寝ていたか』「いや…? 酒がなんかへんな感じで残ってて…なかなか眠れなくてよぉ…」『酔ってるのか。珍しい』そういえば、酒を飲み始めたきっかけはそもそも、この男のせいだったことをスクアーロは思い出した。なのにどうだろう、今はその時の怒りも何も残っていない。何もない。何もないところに、ザンザスの声が染みるように入ってくる。乾いた砂漠に水が染みこむように、それは確実に体の細胞の一つ一つに入ってくる。なんということだろう。「どうだっていいだろぉ、んなこと」『酔ってるな』「酔ってちゃ悪ぃのかよぉ」『…無様な真似をするなよ』「んなことアンタに心配される筋合いは、ねぇだろぉがよぉ…」『おまえの心配をしちゃ悪いか?』「……んな、似合わないこと、すんなよ……」『そうでもないぞ』「なんだよぉ、……んか今日のアンタ、素直すぎて気持ち悪いぞぉ…?」『気に入らないか』「……過ぎた褒美だなぁ、……そんなことされるのは、……怖ぇなぁ、……」口が勝手に動く。これも酔っているせいなのだろうか。それ以前にボスの、ザンザスの言葉が信じられないくらいに優しい。いつも低くて人を威圧するような声で話すのに、電話で話すときは全然、そんな雰囲気ではないのだ。低く甘い声で囁かれる、それはスクアーロだけが聞くことが許される声でもある。女にはそんな声で話すんだなぁ、スクアーロはかつてそんなことを思っていたけれど、昔は必要があって囲っていた愛人にも、ザンザスがそんな声でささやいたことなどないことを、スクアーロは今だに知らない。『おまえにも怖いものがあるのか?』「そりゃああるぜぇ。…アンタ、俺を何だと思ってんだよぉ」『鮫、かな』「そのまんまだろぉ…、んなわけあるかぁ……」『そうだな。……魚じゃないことは確かだ』「だろぉ」『まだ人間のままか?』「魚になった覚えはないぜぇ」思いつくままに適当にしゃべっているのに、珍しくザンザスがそれに付き合ってくれている。なんだか嬉しいような、困ってしまうような、不思議な心地がする。『スクアーロ』「ん…?」『…………………、この前は、………悪かった』「ん…、俺も悪かった、ぜぇ…。ごめんなぁ……」『帰ってくるか?』「あたりまえだろぉ…、俺が、他のどこに帰るってんだぁ…?」--------------------------------------------ボスと喧嘩したスクアーロが酔っ払って電話して仲直りする話。ボス32スク30前後。それにゆりかご初期の短い話、覚醒する前の晩夏の話、争奪戦直後のバイオレンス&ラブな話の詰め合わせです。 [3回]PR