昨日、今日、そして明日 鮫誕生日企画「Fericia」に寄稿したもの。なんだか妙に大変だった記憶が。最近春が来るのが早い。珍しく、昼間というよりも朝から、ぽっかり時間に隙間が出来た。ルッスーリアは紅茶を入れてくれはしたが、用事があるといってすぐに出て行ってしまった。談話室に誰もいない。ぼんやり、暖かい紅茶を飲みながら、スクアーロは部屋の南側に大きく切られた、外開きの窓を見る。その向こうの空を見る。カーテンはきちんと両側にまとめられ、タッセルできちんと留められているので、視界は広い。空は晴れている。とても明るい。こんな時間に何もなく、外を見るのも久しぶりだなぁ…などと、そんなことにスクアーロは突然気がついた。外はこんなに明るかっただろうか。空はこんな浅い色だっただろうか。ぼんやりと記憶を辿れば、最近はとんと天気が悪く、沈んだ低い雲が立ち込めていて、星も月もない夜ばかりだったことを思い出した。短い昼の間に、外に出ることもあまりない。どことなく鬱々とした気分だったのはそのせいだったのかと、ようやく今頃合点がいった。ほう、と息を吐いて、甘い、あたたかい飲み物を腹に落とす。ゆるゆるとした気分になれば、昼間からまぶたが落ちてしまいそうな予感がある。最近春が来るのが早くねぇかぁ?スクアーロはそんなことを思いながら、ぼんやり、自分の記憶を辿る。春は冬の終わり、雨の少ないこの国では、恵みの季節の始まりでもある。ここ数年夏は水が足りず、夏の火事が多くて問題になっていた。雨が降る前のこの季節、北部は雪解けで洪水になったりすることもあるが、南部は水がなくて困るほうが多い。最近は冬に雨が多すぎて洪水になることもある。 晴れた空は本当に珍しい。日差しが急に明るくなったような気がするけれど、雲の上でとっくに春は来ていたのだろう。昔はあまり好きではなかった。春になるのが厭わしく、キチガイが増える時期だというのは本当だな、などと思っていた時期が長かった。そわそわするのは動物ばかりでなく、組織の箍もよく緩んだ。冬から春は殺しの仕事が多かった。みせしめの仕事は好きではなかったが、冬の憂さをはらすには丁度よかったように思う。……あまりよく思い出せない。今はそんなことを思わない。冬は仕事がしにくい。死体の片付けは楽だったが、死体にするまでがひどく難儀だった。春は楽だ、皆浮かれて外に出たがる。思いがけない隙が出来る。心がどこか、ざわりと騒ぐ。春は走る、逃げるように去る女神の季節。新緑の喜びを寿ぐを厭うことがなくなったのは――ああ、そうだ、あのときから。「おめぇしかいねぇのか」突然声がかかたのに、反射で振り向いたドアの先、薄ぼんやりとした暗がりの中に、『それ』がいた。「あー、ボスさんかぁ。悪ぃなぁ、今ルッスはいねぇんだぁ。……どうしたんだぁ珍しい」「ちっ」舌打ちするのは癖のようなもの、そういえば夕べ、長い仕事が終わって戻り、報告書を出して部屋に戻っても、朝までぐっすり眠れたのは、この男が声をかけてこなかったせいだということに気がついた。「茶くらいなら入れるぜぇ?」「紅茶か?」「そのほうがいいんだろ? 目が腫れてるぜぇ」「しかたねぇな、我慢してやる」赤い瞳に覇気がない、今日も朝早くから、面倒な仕事をしていたんだろう。二十代も半分を過ぎて、いよいよ男ぶりの増した精悍な顔立ちが、疲れてやつれているのにも、それも一層、なんだか、ひどく色っぽいものだと、スクアーロはそんなことをふと、思う。ソファに座る動作は重い。疲れているのがそれだけでも知れる。普段は部屋から出てこないのに、今日は珍しく出てきたのは、よほど煮詰まっているのだろう、そんなことを考える。顔色はあまりよくない。顎のラインが少し削げていて、もしかして食事もあまり進まないのかと考える。それとも時間をかける余裕もないか、それはかえって能率を下げるのではないのか、と考える。湯を沸かし、茶葉を準備してポットを温め、何か菓子を、そう思いながら冷蔵庫や戸棚を探せば、きちんといくつか、準備されているのを発見して、さてどれにしよう、と悩む時間すら与えられた。流石に長年、彼らの面倒を見ているだけのことはある……と、ルッスーリアの気遣いに感心する。普段はあまり甘いものを好まない彼らの王であるけれど、流石に今日は唇とシナプスにそれが必要ではないかと、スクアーロは戸棚の中の包みを開いた。ふつふつと湯が沸く。そうなれば、まだほんの子供のころ、きちんと茶を入れるくらい出来るようになれと、今そこで茶を待っている男に、殴る蹴るの暴行を受けながら、覚えさせられた正確な手順で、恭しくも厳かに、最高の一滴を白磁に垂らすことになる。白磁を暖め、カップを暖め、沸騰した湯を空気を含みながら注ぎ、静かに蒸らす。ジャンピングの時間を待つ。トレイに載せて前に出し、時間をきっちり、見計らってカップに注ぐ。空気に反応して、水色が赤く、冴えるのを見る。完璧。黄金の一滴まで、きちんと注ぐ。「待たせたなぁ」スクアーロの声に一瞬、目の前の肩がびくりと震えた。今一瞬意識トんでたんだな、そう考えればそれはつまり、朝早くからではなく、昨夜からずっと、仕事をしているのだろうか…とも思う。「夕べは寝たのかぁ?」「寝た」「ホントかぁ?」「本当だ」「ベッドでかぁ? ソファに横になるのは寝たとは言わねぇぞぉ」「う、あぁ」即答でSiがないのは肯定の意味、ああやっぱり寝てねぇのか、そう思えば声が沈む、その気がなくても沈んでしまう。「少しは休めよぉ」「休んでる」「本当かぁ? なぁ、俺今日暇だから手伝おうかぁ?」「おめぇなんか出来ることあっか」「全部おまえが目を通す必要はねぇだろぉ? 書類の仕分けくらいなら出来るからよぉ」答えるのも面倒そうな、その視線がふと、テーブルの上の皿から一枚、菓子を手にとって口に入れる。さくり、軽いウエハースに包まれた甘いバニラの香り。簡単でシンプルな味に、眉間の谷が少しは浅くなるのが見える。「……甘ぇ」「目が覚めるだろぉ?」「クソ甘ぇな、歯が浮くぜ。……?」「なんだか懐かしくってなぁ」「あ、……あ?」軽い歯ごたえの甘い菓子、国内では有名な、子供なら誰も知っているその味は、遠い昔の思い出の味でもある。それはスクアーロには十年近くも昔の話、ザンザスには少し前の話。「そこの中に置いてあってよぉ、なんだか懐かしくってなぁ。…覚えてねぇか?」「……相変わらずガキくせぇ味覚だな」「ベルに出すつもりだったのかもしれねぇけどよ」「かもな。……懐かしい味だ」昔これはよく、御曹司の部屋のテーブルの上、勉強の合間に口にする菓子盆の中によくおいてあった。監視をかいくぐって窓の外、忍び込んできた銀色の子供は、勝手に盆を開け、勝手にそれを口にして、うまいうまいと言っていた。口の周りを砕けたウェハースの、細かい粉で真っ白にして、馬鹿みたいに笑うのに、手を伸ばして回りを舐めたら、あわてて真っ赤になったのも、それはそれは懐かしい思い出。ザンザスには少しばかり前の話、スクアーロには昔の話。「カプチーノが好きだったよなぁ」「バニラは甘すぎる」「だよなぁ」そういいながら、けれど赤眼の男は盆の上、盛られた白いウェハースを、唇に運ぶことを止めはしない。本当に疲れているのだろう。大丈夫かなぁ、と思いながらスクアーロはそれを眺める。最近、ようやく、スクアーロはザンザスを目で追うことをしなくなった。ザンザスが『戻って』きてからはかなり長い間、スクアーロは自分の視界のどこかにザンザスがいるときはいつも、ほとんど無意識にザンザスの姿を追っていた。何をしてもどこにいても、目がザンザスを追いかけることを止められず、意識していないとすぐに、その一挙手一投足全てを、ひとときでも見逃すことが出来なくなってしまっていた。それは部下が上司を見るという意味を逸脱している。護衛が看視対象を見ているというのとはわけが違う。視線に重みがあるとしたらそれは重く、視線に温度があるとしたらそれは熱いだろうと、余人にもわかる程度には。スクアーロはザンザスを見ていた。見つめていた。見守っていた。ただ、見たかった。八年の間、会いたくて会いたくて仕方なかった人間が、生きてしゃべって目の前にいて、食べて歩いて話しかけてくる、ということに、本当に長い間、スクアーロは慣れることが出来なかった。再開の秋、病室の冬、謹慎の春、監禁の夏を経て、ようやく一年の季節が巡った。365日、毎日ザンザスがそこに「いる」ことを確認できるようになった。それを過ぎてようやく、スクアーロはそうやって、ザンザスをずっと見ていなくても安心できるようになった。長い時間だった。とても長い時間だった。そんなスクアーロの態度に、幹部の誰もが驚いていた。だが考えてみれば、彼らはつまるところ、まだ出会ったばかりなのだ。出会って一年、そして二年、ようやく相手の存在を受け入れて、楽しめるようになる時期だ。半年のインターバルから、実はようやくここから始まったようなものなのだ。毎日毎日、相手の全てを知りたくて、全神経を使っている、その真っ最中ではないか――まだ、始まったばかりなのだということに、二人以外の誰もが気がついた。「レモンはねぇのか」「あ? ……ああ、見あたらなかったぜぇ…、ティラミスと、ココアクリームはあったけどなぁ……」「………」「あんたレモンとか……あ?」言いながら、ふっと何かひっかかるものを感じてつい、隣を見てしまう。屋敷の主はスクアーロを見てはいないが、しかし指で菓子を掴んで、食べるわけでもなく弄繰り回している。その構図まで、見覚えがあった。「…覚えてたのかぁ…?」「思い出した」覚えるほど昔の話ではない。ただ思い出しただけのことだ。ザンザスにとっては、それだけのこと。けれどそれは昔のこと、ザンザスの中では数年前のこと、スクアーロの中では10年前のことだ。まだ後ろ髪が跳ねていた細い子供が、ボンゴレの本部の一番奥、表に通じることのない最奥の部屋へ忍び込んでやってきて、そのテーブルの上のお菓子を食べながら、そんな話をしたことを覚えている。好きな味の話をしたことを覚えている、それを味わったことを覚えている。まだ額にも頬にも怪我のなかった、赤い瞳の御曹司の食べるものを全て、毒見してやるといって口にしていたことを思い出す、思い出して懐かしい気分になるには少し、近しい記憶に口元が緩む。 「………」何かを言いたくて、しかしふさわしい言葉を思い出せなくて、隣で銀の魚が口ごもる気配。どんな顔をしているのかと思ってそれを見れば、予想以上にふんわり柔らかい視線と、少し色身の増した頬がザンザスの視界に入った。寒い冷たい冬の色ばかりの、その男の肌の上にも春の光が差し込んでいて、どこか暖かい気配が漂う。「少し眠ったほうがいいぞぉ…?」伺うような声に、知らず口元が緩む。視界も視線も記憶も、光の中で溶け合ってひとつになったような気がした。昔口元を白くして、うまいと菓子をむさぼっていた子供がそこにいた。今はそんなことはしなくても、赤い水色を薫り高く淹れる大人になってそこにいた。春だ。春が来たのだ。「ボ、」バニラクリームはやっぱりクソ甘いぜぇ、とスクアーロは思った。二人の間でウェハースのもろい形が崩れ、最後はスクアーロがそれを飲み込んだ。飲み込む音が妙にリアルだった。ぎゅっと閉じていた目を開けた。「明日」「あ?」「明日出かけるか」「へ?」「黙ってエスコートされてろ」「は?」「仕事は終わらせる。明日はオフだ。ついてこい」「あ? ぁあ、何か用があんのかぁ?」「カレンダーを見ろ」それだけ言ってザンザスは立ち上がった。来た時よりはずっと足取りがしっかりしていた。顔色が少しよくなっていて、スクアーロは安心した。少しだけでも休憩になったようで、よかった、と胸を撫で下ろした。「あ、手伝うぜぇ」「いい。終わる」「いいのかぁ?」「それより」ドアに手をかけてザンザスが振り向いた。伏せた睫毛の影が、目元に落ちて薄い影になった。今日は光が強い。睫毛の影に隠れたザンザスの、赤い瞳はよく見えない。「明日はちゃんとめかしこんで来い」ぱたんとドアが閉まる。それを聞いてようやく、スクアーロは先ほど言われた言葉を思い出す。あわてて部屋の中を見渡す。カレンダーがどこかにあるかと思ったのに、見つけようと思うと見つからない。どこだったか、色々思い出して眺めるが見つからない。けれど数字は見た覚えがあって、色々思い出しているうちにキッチンにカレンダーがあったことを思い出した。立ち上がってばたばた、キッチンへ向かう。肝心の数字を探す。冷蔵庫の脇に下がっていたカレンダーの、中ほどに何かが書いてあったのを、ようやくきちんとスクアーロは読み取った。ルッスーリアの字は、彼女の体格の割に小さくて丸く、少し右に傾いていて、癖があった。 「え、…明日…? ってぇ……??」ぼんやりしていた頭が急激に覚醒する。部屋に残っている甘い甘いクリームの香りが急に強くなる。見開きすぎて目が乾く。自分の睫毛が上下する音が聞こえて、スクアーロはびっくりする。さっきの行為を思い出す。ボスの手にあった菓子が唇を経由して、喉に落ちた過程を思い出す。甘い甘い舌の感触を思い出す。押し付けた顎の内側を思い出す。至近距離で目を閉じる一瞬、赤い瞳が、黒い、びっしりと生え揃った睫毛に、ゆっくりと隠れるのを見たことを思い出す。別に押さえつけられたり押し付けられたわけでもないのに、抵抗ができなかったことを思い出す。背中を支えていた手の厚みを思い出す。耳の裏側が燃えてくる。体の内側に火がついたことを感じる。首の後ろにもそれは飛び火する。シャツに包まれたうなじから肩から、脊椎へと火がついてしまったことを感じる。それは止めようがない。それを消す水はない。スクアーロの中の雨は蒸発してしまった。もうそれは消えない。きっと一晩、それはスクアーロの体の中で燃えている。それを消すのは水ではない。同じ炎、それよりもずっと強い赤い炎にあぶられるまで消えることはない。13の数字の上の丸のしるしに、スクアーロの頬にも火が移る。ぼうっと燃えるように色づく。それがスクアーロを人にする。子供から大人になった銀色の、長い髪の間の頬に色をつければ、それは一層、顔立ちを輝かせる色彩の魔術。きらきらした春の日差しは、また少し明るくなったようだ。薄くかかっていた雲が消えてゆく。光が反射したスクアーロの銀の髪は、中から光輝いているように見える。髪も肌も中から光っているように見える。一番美しい時代に入ろうとする青年の、そのきざはしを知らしめる。あした、スクアーロは24歳になる。 [0回]PR