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今夜こそ殺してやる

死ぬかもしれない。

そんなことを思ったのははたして何年ぶりだったのか、スクアーロは考えようとして、止めた。
無駄なことはしない主義だ。いままではそうだった、ずっとそうだった。
でも。
もしかしたらこれは違うんではないのか、これはいままでとは違うのではないのか。
そう思うことが不思議で、だからそれを知らないふりをしてやりすごしたいと思う。

死ぬかもしれない。
今だって、心臓の鼓動がほら、こんなに早い。

病気になりそうな予兆もないし、一年に一回ある健康診断ではどこにも異常は見当たらなかった。スクアーロは片手が義手なので、普通の人よりも頻繁に医務局の世話になることが多い。激しい任務でガタが来ると、それこそ生死の問題にかかわるし、体を使った接近戦のスタイルで戦うことがメインなので、どこか異常があったらすぐに、検査して治すようにしている。
鮫に食われて引き裂かれた腹の傷も治ったし、手足の怪我もすでに治っている。骨折した足に入れたボルトはこの前抜いたばかりで、そのためのリハビリもしまくったが、それだって終わって、今は至極健康。

争奪戦が終わって一年半が過ぎて、最初はひどく荒れていたザンザスも、今はすっかり落ち着いて、監禁されていたヴァリアーの幹部も皆戻って、任務は普段通り、監視や護衛や情報収集の任務が多少は増えたかもしれないが、やはりすることは人の暗部を暴くこと、人の暗部をさらすこと、知られたくないことを知った人間を、すみやかに処分して世界からいなくなってもらうようにすること、だという仕事の内容は、基本それほどかわってはいない。

だからこそ一層、ここ最近の体調が信じられない。

異常はない、どこにもおかしいところはない。
なのになんだ、この心臓の激しい動悸、意味もなく熱が出る、食欲がまったくなくなる、記憶が抜ける、脳味噌の動きまでも止まってしまって、どうにもならなくなるなんて、それこそ。

本当におかしい。

本当に。






死ぬかもしれない、と思いながら、スクアーロは長い廊下をとぼとぼと歩く。
普段はもっと歩く速度は速い。こんなにゆっくり歩かない。足音だって消したりしない。
けれど今日はそのどれも、やろうという気にまったくならない。
どうしよう、本当に、どうしてくれよう。
二回ドアをノック。珍しく、返事が来るまで待つ。
少しの間があって、入れ、と促される。
返事はこんなに時間がかかったのだろうか、などと考える。


「報告書持ってきた」
「ああ」

赤眼の王様は表情も顎に手をやり、肘をついて机の上の書類を眺めている。
いつもの通り。
いつもの通りだ。
いつもの通りなのに。
スクアーロはいつもの通り、報告書を手にして、王様の机の前に立つ。
右手に持った紙を出す。投げやりにザンザスが手を伸ばして、その大きな掌に、書類を落とすのもいつもの通りだ。
落とした先の掌を、ああ、なんて分厚い掌なんだろうなぁ、と眺めていたのを除けば、それはいつもの通りだった。
ザンザスの掌は厚みがある。
そして、それに反して指が長く、間接が細い。
炎を宿している掌は、中央が分厚く、周辺に行くにしたがって薄くなっている。長い指と長い爪、しかし指先は固い。鉄を撫でているから、関節が細いように見えて、その実はしっかりしていて、手首のあたりまで、掌は金属のように重いのだ。
その指先に、自分の手が触れたような気がして、スクアーロはぱっと手を離してしまった。どうした、とでも問いかけそうな瞳が、じろりと下から見上げてくる。

「なんだ?」
「いや」

話を続けられない。ザンザスはそのまま、じっとスクアーロを見つめ続けているのがわかる。
なんで、と思いながらそれを見返して、視線が合ったとたんに、スクアーロはまたもや死ぬかと思った。

ザンザスが笑ったのだ。

目元を少し緩め、分厚い唇をすこし、ほんの少し開いて、甘い吐息を吐き出すのを、スクアーロは見てしまった。
そうなったらもう駄目だ、スクアーロはまたもや今日も、死にそうな気分になり、死にそうな状態になる。耳の後ろが急に熱くなる。心臓の鼓動が早くなるのがわかる。踊るようなその鼓動が早すぎて、息をすることが出来なくなってしまう。
苦しい。息が苦しい。
口を開けてなんとか、呼吸を取り戻そうと細く息を吐けば、次に息を吸うことも出来なくなりそう。
きっと今自分は相当醜い顔をしているに違いないとスクアーロは思った。
それほど何もかもが駄目になった。
ザンザスがただ笑った、それだけで。

「あ」
「どうした?」
「いや、……なんでもねぇ。じゃ」

駄目だ死ぬ。
このままだったら死ぬ、きっと死ぬ。
スクアーロはそう自覚した。
そのうち自分は死ぬに違いない。
ザンザスを見ているだけでこんなに苦しいのだから、そのうち本当になにか、死んでしまうようなことが、起こってしまうに違いない。
踵を返すスクアーロの背中に、かすかな含み笑いをしたザンザスの声が追いかけてくる。

「夕飯の後で酒もってこい。いつものやつ」
「あ? 酒…? ……んなもん、他の」
「おまえが持ってこい、スクアーロ」




心臓が止まる。

今確実に心臓が止まった。

俺は死んだ。死んでしまった。


名前を呼ぶなんて反則だ、なんでここで名前なんか呼ぶんだ、ありえねえだろマジで、俺を殺す気なのかボスさんは、駄目だ絶対俺できねぇ、無理無理ムリムリ!!





「……わかったよぉ゛」




なのになんで。

なんで口は勝手にそれに、Siって答えたりするのだろうか。
ありえない。
マジでありえない、この状況。
おかしい。
本当におかしい。
なんでSiって答えるんだ俺! 
そこはなんとでも言ってやめとけ!
スクアーロの中でスクアーロが叫びながら、自分の答えを今すぐ撤回させようとする。
そうだ、今すぐ「休みたいから」とでもなんでも言えばいい。
行かない、といえばいい。
そうすれば、まだ自分は死ななくてもいいかもしれない。

けれども。



「ボウモアの10年、ロックでいいかぁ?」
「ああ」


ザンザスはそう答えて、また少しだけ、唇を緩めて笑う。
もしかしてそれ流し目っていうんじゃねぇのかぁ、俺になんかそんなことしていいのかぁ、そう思いながらこくん、と頷いてしまう自分がどうにも、苛立たしい。

「後でな」

ひらり、その長い細いセクシーな指が宙を舞えば、スクアーロはもう、何も答えられずに唇を噛み締めて、部屋を出て行くしかないことも知っている。なんてズルい男なんだぁ、ボスさんは、……そんなことくらい、嫌というほどスクアーロは知っているけれども。



くるりと背を向けて部屋を出て行く、その薄い背中を見つめるザンザスの、目元にはとろりと甘い蜜の香り。
唇には砂糖菓子のような悪戯っぽい微笑み、さらりと銀の髪がドアの隙間を抜けてゆくのを、大変惜しそうに見送って、手にした書類を机の上に放って置いた。
心臓の鼓動が早くなりすぎて、動けなくなりそうだとあわてながら、立ち去る姿が愛らしい、などと思いながら目を閉じる。息を吐く。ゆっくり吐いて、ゆっくり吸う。

なんてことだと思いながら息を吐く、ザンザスは自分の頬を手で触れる。
そこはずっと熱く、きっと赤く、燃えるように熱を持って、炎を抱く掌よりずっと、赤く激しく燃えている。
気がつかなかったのかと思いながら息を吐く、背中がじっとり濡れている、脈拍が速いことは自覚している、足の裏まで血流が増して、膝が机の下でがくがく震えている。

「あのカスザメが」

そう口にするだけで心臓が跳ねる、なんとか勇気を振り絞って口に出した命令に、Siと答えてくれたことを、心底安堵して息を吐く。

今夜こそきっと殺される、あの存在が自分を殺す。

そう思いながら息を吐く、あれが傍に来て、あれを見ながら酒を飲めば、それこそこの世の天国、地獄、極楽さえもわが胸もうちになりそうな、そんな心地に胸が、弾むというよりはもっと凶暴な力で唸る、恐ろしいくらい唸って叫ぶのが怖いほど、そうだ自分の心臓の、鼓動の早さに死ぬかもしれないと、そんなことすら考える。

前はそんなことはなかった、そんなことを考える余裕もなかった。
かけらもそんなことを思わなかった――いや、そんなことはない。
気がついていた、なんとなくそうは思っていた、けれど自覚したのは本当に最近、去年の秋に始めて―――そう、初めて二人で誕生日を迎えて、スクアーロが確か、そうだ確か、「俺オマエの誕生日、ちゃんと祝うの初めてなんだぜぇ」と言ったのを、聞いたときに初めて、世界の扉が開いた音を、聞いた気がした確かめた。

スクアーロがそう言った。
少しだけ眼を細めて笑った。
薄い唇がやけに赤かった。

それを見ているうちに突然、ああ、こいつやっぱり綺麗なんじゃねぇのか――と、そんなことをぼんやり、思いついたらもう、そうしたらもう、何かいままで、世界に色なんかついてなかったみたいになった、突然世界がカラフルになったのを、世界が違うものになったのに気がついた。
驚いた、そうだ本当に驚いた、たったそれだけ、スクアーロが綺麗なのだと気がついた、ただそれだけ、それだけで、世界は本当に色鮮やかに明るくなった。毎日見ている壁紙の中にバラがちりばめられていることに気がついた、グラスにぶどうの蔓が絡んでいることに気がついた、書類の透かしの模様が、綺麗な書体だったことに気がついた。

たったそれだけでよかった、それだけで、スクアーロが綺麗なのだと思っただけで、自分はスクアーロのどこを見ていたのかと思うほど、スクアーロの何もかもが全部、新しくて綺麗で眩しくて鮮やかで、それこそ何かの魔法でも、かかったんじゃないかと思ったくらいだった。


これは確かに魔法というやつだ、誰もとくことができない魔法、相手がかけたはずもない魔法、これは確かに、恋の魔法に違いない。
恋の魔法は致死量の毒薬だ、判断力を失わせ、意識を奪い、心臓を乱して体調を崩させる。世界が自分とその相手だけになる、どんなことも幸福に繋がる錯覚をしてしまう、理性を奪い世間体を失わせ、まがい物の幸福に全てを、いままで過ごした人生全てをかけてもいいような気にさせてしまう、それこそ本当に魔物のような毒薬、それにかかった、スクアーロという魔法に魅入られて、今も息がたえだえ、ただ顔を見ただけで死にそうになっている。

毒薬を抜く方法はただひとつ、同じ量の毒薬を、相手に投与するしかない。
殺される前に殺せ、それは彼らの不文律、もちろんザンザスはそれを、相手に適することを厭わない。


興奮した汗で、じっとり湿った掌を握りこんで、ザンザスは大きくはぁっと息を吐く。

どうしてくれようあの馬鹿な男、俺に致死量の毒を流し込んだ鮫の血を、どうやって俺はすすって屠って舐めてくれよう、覚悟していろスクアーロ。




可愛い可愛いスクアーロ、今夜こそ、おまえを根こそぎ殺してやろう。

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