いないいないばあ 毎日それを考えているわけじゃない。眠いときに眠る、起きるときに起きる。仕事をする、体を鍛えるために走る。汗を拭く。着替える、洗濯をする、シーツを替える、ベッドカバーに穴が開いているのを見つける。まとめたリネンを持って廊下を歩く、なんだかしきりと雨の匂いがする。外は晴れているのに。一階の部屋に持っていく、ここで暮らしている限り、洗濯の心配をしなくていいのはありがたい。昔住んでいた部屋は日当たりが悪く、シーツがなかなか乾かなくて、洗濯のロープを引っ張り上げるのが、ガキだった俺にはとても大変だったんだ。洗濯バサミは固くて、俺の指が挟まったらちぎれるんじゃないかと思うと怖かったっけな。でも屋上でそんなことをしていたんだから、きっと母親がいて干していたんだろう。なんでそんなことを思い出すんだろう。この屋敷で掃除と洗濯をしてくれているのは年配の女で、いつも静かに床を磨いている姿しか思い出せない。そういえば俺の母親はどんな女だったっけ?ベルフェゴールのために朝食を作るのはルッスの役目、昼は俺の役目。いないときはいるほうがやる約束。面倒になると出来合いのものですませるけど、ベルはなかなかそんなものを口にしないから、結局は食べさせるために食事を作る。たまねぎを刻む。ジャガイモを刻む、セロリを刻む、ズッキーニを刻む、トマトを刻む。今はほとんど指なんか切らない。道具を引き出す。粉とフェルトとクロス。刃物を磨く方法はほとんどひとつきり。水分をかけて砥石で磨くだけ。でも素人が出来るの刃こぼれを起こさないようにすることと、油や水分を取って綺麗にすること。血糊はちゃんと落としたが油が残っている。クロスで拭いて、粉を振る。もう一度クロスで拭く。光に透かして油が残っていないかどうかを見る。残っていたら粉を振ってクロス、その繰り返し。終わったらフェルトでぬぐう。ムラや汚れがないことを確かめる。終わったら接続の金具を調べる。緩んだ部分を締め直す。油を差す。それが終わったら今度は自分の手を見る。布を解く。義手を動かす。駆動部分を何度も動かす。音が少し濁っている。折れた状態にして油を差す。もう一度動かす。今度は澄んだ綺麗な音がする。きしみの音が聞こえなくなったので安心する。元の位置に戻して、手袋を嵌める。装着部分も点検。生身との接合部分が蒸れて、少し被れている。今日は外して、寝る前にクリームを塗っておかないとまずいかもしれないと思う。毎日それを考えているわけじゃない。静かな部屋には外の音が入ってこない。窓は防弾ガラスで、二重のペアガラスになっている。音は聞こえないし、寒さはあまり感じない。人が一人いるだけで、ストーブを燃やし続けているだけの熱量が空気中に放出されているのと同じだから。もっとも、そんなに寒いとか思わなくなったのは、たぶん春になっているからなんだろう。耳が何かの音を拾う。窓の外の外壁に何かが落ちる音。雨だ。雨の少ない国の、少ない雨の記憶が流れ込んでくる。すうっと、薄い刃物を皮膚の下にすべりこまされたような寒気を感じる。危ない。心臓を抉られる。ひやりとした指先がうなじに触れる感触を感じる。ありえない。ここには俺しかいない。指先は熱い。水で濡れている。だが中から燃えるように熱い。気配を感じる。背中にいる。それは振り向くと消えてしまうものだということを俺は知っている。最近はとんと来なかったから忘れていた。背中にそれはいる。圧倒的な熱量、触れれば焦げるような意識、存在感の圧力に息も出来なくなり、紅蓮の瞳が矢のように心臓を射抜く怪物がそこに立っている。それは振り向いたら消えてしまう。振り向いた途端、それはないものになってしまう。振り向かなければあるかもしれないと思えるけれど、振り向いたら確実になくなってしまうものになる。それが心臓の上に薄い刃を差し込む。ひやりと血が凍る。脊髄を冷たい冷たい絶対零度の熱が突き抜けてくる。頭の後ろから頭蓋骨を、大きな手で掴んで揺さぶってくる。体の中に落とさないように止めていたいろいろなものが、振り落とされて落ちてしまうのをこらえる。けれどそれはいつまでも俺の頭を振り続ける。気持ちが悪くなる。息を吐きたくなる。吐いたら負けだ。息を吐いたら吸わなくてはならなくなる。吸ったら力が抜ける。吸ったら緩む。緩んだら落ちる。何度か波が来る。こらえる。何度も音がする。波が寄せてくる。何度も寄せてくる。何度も。座っていられなくなる。刃の道具を脇によけるのが精一杯で、床に頭を押し付けて背中を丸める。息を大きく吸わなくてもいいようにする。息をつめて細く吐き出す。細く吸う。頭がくらくらする。これは発作のようなものだ、と思っていたこともある。病気だ、病気なんだ、どんどん重症になって、発作が何度も来るようになって、そのうち俺は死ぬんじゃないかと思っていた。おかしなことになかなかそうはならなかった。息を吐く。背中を震わせて細く息を吐くなんて、まるでセックスで絶頂に押し上げられたときみたいじゃないか。波に呑まれる。息を吸う。吐くために吸う。吸わなければ息が出来ないから吐く。耳の後ろで声がする。俺の名前を呼んでいる声が聞こえるが、それは俺の気のせいなのだと知っている。目を閉じている間はそれは囁いているかもしれないと思っていられる。振り向かなければ、そこにいるかもしれない可能性があると思っていられる。そんなことはない。すっと何もかもがひいてゆく。満潮の時間が過ぎたのだ。首の後ろで触れていたような気がする、その気配も吐息も体温も消えてゆく。もういない。いなくなった。いなくなってしまった。いつも思っていることはない。毎日の生活はそれなりに忙しい。金があってもなくても忙しい。仕事はなくてもあるものだ。だからやっぱり忙しいと思っていることにしている。それでいい。いつもなら。時々こうして波が来る。遠い遠い記憶の底から波が来る。満潮になる時間が早いときもあれば、遅すぎて波が引いてしまうこともある。昔はずっと満潮だった。最近はそうでもない。そうでもないが、最近は足がつかなくなった。流されて、どこか遠くに運ばれてしまいそうになる。そうなったらおしまいだ。もう波は引かなくなってしまう。波の中に埋もれて、本当に魚になってしまう。まだヒトでいたい。まだヒトでいたい。まだヒトでいたい。まだヒトで待っていたい。まだザンザスを待っていたい。まだヒトでいたい。鮫になりたくない。「………ッ……!!」名前を呼ぶことは出来ない。口に出すことは出来ない。約束はまだ果たされない。眠りはまだ終わらない。時間はまだ来ていない。その時はまだ来ていない。力が足りていない。まだ足りない。いまはまだ。いまはだめならそれはいつだ。いつだ。いつだ。いうだ。いつだ。ザンザスが、目覚めるのはいつだ。波にのまれたい。波にのまれたくない。波にのみこまれたい。波にのまれたくはない。あいたい。あいたくない。あいたい。あいたくない。あいたい。あいたくない。あいたい。あいたくない。あいしてる。あいたくない。あいたい。あいしてない。あいしてる。あいしてない。あいたくない。あいたい。ザンザスにあいたい。ザンザスをあいしたい。ザンザスにあいたい。あいたい。毎日それだけしか考えられない。毎日それだけを考えているわけじゃない。死んでも傍にいけるわけじゃない。死んだらラクになれるわけじゃない。死んで楽になりたいわけじゃない。あいたい。夢の中ではもう、あいたくない。-----------------------------------20過ぎくらいの鮫。発作のように悲しくなる、春の憂鬱。 [6回]PR