XSの日 まちでうわさのおおきなおうち・2 夕べは久しぶりにちゃんとした。ちゃんと肌を寄せて、触れて、奪うあうようなキスをして、抱きしめて、足を開いて、受け入れて、受け入れられた。擦って締め付けて、扱いて嬲って、しがみついて揺さぶった。だからつまりは、二人して、かなり疲れているというのが本音だった。体が痛むというよりは、気力が沸かずにいるせいで、朝の日課の散歩も、毎日の鍛錬のランニングも、今日はしたくない気分だった。二人でだらだら、ベッドの中で、のんびり抱き合って、どうでもいいことを話したり、何も言わずにじっとしていたり、そんな気分であったのだ。「ふふ…」唇を緩めて笑う、スクアーロの髪を撫でる手はいい加減、その手触りを愛でるのに飽きて、髪の中のこぶりな耳たぶや、細く研ぎ出されたうなじや、するどい直線を描く顎を撫でていた。喉の下を節くれだった指先で撫でられて、白銀の大きな獣がよろこびの声を上げる。「寝坊したなぁ、もうこんな時間だぜぇ」「たまにはいいじゃねぇか。なんかあったか?」「そうだなぁ、…今日はゴミの日じゃねぇし、飽きるまで寝てるか?」「そこまではいい。……おい、ガキの声がするぞ」「ああ、ちょうどそんな時間だぜぇ…」乾いた道路を子どもの足音が、遠くからやってくるのがよく聞こえる。さすがに昔ほどいい耳であったわけではないが、子どもの足音は隠されないし、なにより大きな音なので、二人にはそれだけで、誰の足音か判別がつくほどである。家の前を通る子どもはすでに全員把握済だ。去年庭に忍び込んでスクアーロに怒鳴られた子の家の場所も、家族構成も親の職業も、一緒に来た子の家も二人はすでに調べているから、それが誰なのかはすぐにわかった。家の前の道をわざわざ入り込んできて、門の近くまで来て、少し立ち止まって、また戻ってゆく。「おめぇを探してるんじゃねぇのか」「かもなぁ。……一応俺たち、外国人だろ? あっちの親が地域の防犯委員かなんからしくってよぉ、たぶん警察から通達でも出てるんじゃねぇのかってとこだろぉ」「ガキに監視させてるってことか?」「監視っていうか、……声かけ? とかゆーんだと」「なんだそりゃあ」「日本人はなかなか、知らねぇ人間に挨拶とかしねぇからさぁ…、防犯ってことらしーぜ」「そんなもんでいいのか?」「平和なんだろ……。まぁいいじゃねぇかぁ……もう少し寝てるか?」「起きると腹が減る」真顔で肩を撫でながら、そんなことを真剣に言うザンザスに、思わず噴出してしまったスクアーロは、撫でられた髪に自分の手を入れるのを、心底もったいない、と思いながら。分厚い熱い手のひらが、肌を過ぎるのを惜しみながら、広いベッドに薄い体を起こした。クラッカーとカフェを齧って飲んで起き上がって、結局二人して冷蔵庫の中を掃除するために、遅い朝食だか早い昼食を作り始めることにした。今日は久しぶりにちゃんとイタリアの味を楽しもうと、まずはパンを作るところからはじめることにした。日本のパンはさすがに二人には甘く、やわらかすぎて口に合わず、気に入ったパンを売っている店を探していたが、作り方をメールでルッスに送ってもらって試行錯誤しているうちに、自分で作ったほうが早いのではないか、ということに気がついたのだ。さすがに向こうで食べていたものほどうまくは出来ないが、毎日はともかく、週に三回は作り続けていれば、その味にも慣れてくる。パニーニは気に入った店を見つけたので大量に買ってきて冷凍することでなんとかなったが、ほかのものは長くそれを作っていた本人からの詳細なレシピのおかげでなんとか、同じは無理でも同じように、出来るようにはなっている。サラダの野菜は庭にあるものをありあわせで、メインは鶏肉をトマトで煮込んだカチャトーラ、パンの発酵を待っている間に肉を切って香辛料に漬け込むのはザンザスの仕事だ。こういうものは珍しく、ザンザスはスクアーロに作らせない。スクアーロは切るのはうまいが焼くのがどうも苦手で、通らなさ過ぎて生焼けだったり、焼けすぎたりで硬かったりが、圧倒的に多い。最初は文句をつけていたが、大喧嘩して一度、自分で焼いてみたところ、今までの失敗作がうそのように上手に出来てしまったのだ。すかさずそこを褒めたスクアーロは、前に近所のおばちゃんから耳打ちされた「亭主に家事をさせる方法」が小さい軽い脳みそのどこかにこっそり、残っていたのかもしれなかった。おそらくは無意識に、すげーな、さすがボスさんだぜぇ!! と、思っていただけ――なのかもしれないが。一時間ほどそうやって、二人して手際よく調理をしていると、玄関の脇に設置したインターホンが間延びした鳴り方をする。濡れた指先をエプロンで拭いて、キッチンの脇にある操作パネルを押せば、カメラには見覚えのある顔が立っていて、スクアーロは驚いた。「こんにちはー。近くに来たので寄ってみたのなー」「山本!? おおっタケシぃ、久しぶりだなぁ!!」「こんにちはー。顔見せてくれよ、二人とも」「ちょっと待ってろぉ!」やりとりを聞いているザンザスは、煮込みの仕上げに忙しくて手が離せない。振り返ったスクアーロが、いいか、と聞くのに好きにしろと返して、最後の味付けの塩をどのくらい入れるのかに悩んでいるほうが重要だとばかりに、視線を向けもしなかった。玄関のロックをはずす。スクアーロは、ばたばたと足音をたててリビングを抜けてホールへ向かう。吹き抜けの天井があるホールはまだ朝のひんやりした空気のままで、しかし勢いよくドアを開ければ、そこに年をとっても能天気な声が、ただ朗々と響くばかりである。基本的に山本武とスクアーロは、根が体育会系なだけあって、普段の話し声が、非常に大きい。年を取って声が大きいのは、可聴音域が狭まっている相手にとって悪いことではない。二人とも、その年齢の割に、体中どこもかしこも、非常に頑強で壮健ではあるけれども。そんな大きな声が、そうでなくてもよく響く玄関の、吹き抜けの天井にガンガン響くものだから、二人が何を話しているのか、奥のキッチンにいるザンザスにも、非常によく聞こえていた。日本人の長い挨拶、長い前口上、そして歩きながら入ってくる二つの足音。キッチンとリビングまでは土足なので、靴を脱ぐ動作がないのが、この屋敷の特色でもあった。「こんにちはー、ザンザス! おおっすげぇ! ザンザスがエプロンしてるとこなんて始めて見るのな!」にこにこと背景にそんな音が聞こえてきそうな、いかにもな日本男子が大股でリビングに入ってくる。年はもう四十の半分を過ぎているが、髪が幾分白く、量が減ったくらいであまり変わった気がしない。真っ黒の髪はところどころ白くなっているが、薄くなっている部分はなく、それだけでもかなり、若々しさを感じさせる。背筋がまっすぐで、視線がいつも前を向いている。姿勢がいいから老けて見えない。スクアーロがそれを椅子に座らせ、湯を沸かしてコーヒーを入れる準備を始め、ついでのように声をかけてきた。「なぁ、せっかくだからタケシに飯食わせてもいいだろぉ? 一緒に食おうぜぇ!」「好きにしろ」「だとよ! そろそろ昼だろぉ、腹減ってるかぁ?」「えー、いいの!? ご相伴に預かってもいいのかよ? いやったぁ!」 顔中が笑顔になったような顔で、にこにこ笑う年下の、十代目の雨の守護者は昔から、本当にスクアーロと仲がよい。仲がよいというにはそれは少し、違うかもしれないが、少なくとも山本の、人生の意味をがらりと、変えてしまった男の一人がスクアーロなのは間違いない。 二人の世界はどこか、ザンザスとスクアーロの世界とは違うところにあって、そこにどうやってもザンザスは入れないことに、羨ましくて妬ましく、どうにも自分の感情をもてあまして苦しんでいたことが、長い期間、あった。今でも少し、それは感じる。感じるが――それも、スクアーロであると、受け入れることを厭わしいとは思わなくなった。諦めたのかもしれない。スクアーロはどうしたって、泳ぐことをやめられない、海洋の最強の魚なのだ。飼い殺しの夢を見て、何度かそれをしてみたこともある。けれど鮫を殺すことなど到底出来ず、先に根をあげたのはザンザスのほうで――その強さに、たぶんずっと、救われていたのだと、思い知ることももう、数えることなど出来るものではない。 [6回]PR