忍者ブログ

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

うそつきな唇

スクアーロがいや、という。
いや、いやだ、いやだという。
それは本当か、と問いかけても、いや、いやだと繰り返すばかりで、「なにが」「なにを」いや、なのか、その唇は答えることがない。

いやなのか。

そう問いかけるのにそうだ、と答えないくせに、なにをしてもいや、いやだと答えるのだ。
スクアーロ、おまえの口と体はいつも反対のことを言う。
俺はどちらを信じればいいのか、おまえはわかっているのか?

いやなのか?

今度は質問の意味をこめて、強く、よく聞こえるように耳の中に、舌を入れて注ぎ込む。

いやなのか?

こちらもなにも言っていない。なにを、なにが、いやなのか、なんて。
なのに唇はさっきまでの饒舌さをどこかへ隠してしまったらしい、舌が固まって動きゃしない。
答えは同じように言えばいい、いや、いやだといえばいい。言えるだろう、さっきまでそうしていたんだ嫌がっていた、背中は固かったし膝はこわばっていた。手をぎゅっと握って、仰け反ったうなじにも力が入りすぎていて、おもわず噛み切りたくなりそうなくらい。

いやなのか?

昔はすぐに答えていた、いいと答えて抱きついてきた、嫌だって言ってるだろうって顔を背けていた、なのに今は答えられないのか、イエスもノーも言えないのか。

黙っていたらいいように解釈するぞ、容赦はしないぞ知ってるだろう。いや、いやだと言ってるくせに、潤んだ瞳を隠さないなら。

唇ばかりは言葉だけで、いや、いやだというけれど、濡れた色も赤い色も、それを全否定しているってことを、まだおまえは知らないのか?

拍手[6回]

PR

昨日、今日、そして明日

鮫誕生日企画「Fericia」に寄稿したもの。なんだか妙に大変だった記憶が。



最近春が来るのが早い。

珍しく、昼間というよりも朝から、ぽっかり時間に隙間が出来た。
ルッスーリアは紅茶を入れてくれはしたが、用事があるといってすぐに出て行ってしまった。
談話室に誰もいない。

ぼんやり、暖かい紅茶を飲みながら、スクアーロは部屋の南側に大きく切られた、外開きの窓を見る。その向こうの空を見る。
カーテンはきちんと両側にまとめられ、タッセルできちんと留められているので、視界は広い。

空は晴れている。とても明るい。
こんな時間に何もなく、外を見るのも久しぶりだなぁ…などと、そんなことにスクアーロは突然気がついた。

外はこんなに明るかっただろうか。
空はこんな浅い色だっただろうか。

ぼんやりと記憶を辿れば、最近はとんと天気が悪く、沈んだ低い雲が立ち込めていて、星も月もない夜ばかりだったことを思い出した。短い昼の間に、外に出ることもあまりない。どことなく鬱々とした気分だったのはそのせいだったのかと、ようやく今頃合点がいった。
ほう、と息を吐いて、甘い、あたたかい飲み物を腹に落とす。ゆるゆるとした気分になれば、昼間からまぶたが落ちてしまいそうな予感がある。

最近春が来るのが早くねぇかぁ?

スクアーロはそんなことを思いながら、ぼんやり、自分の記憶を辿る。
春は冬の終わり、雨の少ないこの国では、恵みの季節の始まりでもある。ここ数年夏は水が足りず、夏の火事が多くて問題になっていた。雨が降る前のこの季節、北部は雪解けで洪水になったりすることもあるが、南部は水がなくて困るほうが多い。
最近は冬に雨が多すぎて洪水になることもある。 晴れた空は本当に珍しい。
日差しが急に明るくなったような気がするけれど、雲の上でとっくに春は来ていたのだろう。


昔はあまり好きではなかった。

春になるのが厭わしく、キチガイが増える時期だというのは本当だな、などと思っていた時期が長かった。
そわそわするのは動物ばかりでなく、組織の箍もよく緩んだ。冬から春は殺しの仕事が多かった。みせしめの仕事は好きではなかったが、冬の憂さをはらすには丁度よかったように思う。
……あまりよく思い出せない。

今はそんなことを思わない。
冬は仕事がしにくい。死体の片付けは楽だったが、死体にするまでがひどく難儀だった。
春は楽だ、皆浮かれて外に出たがる。思いがけない隙が出来る。
心がどこか、ざわりと騒ぐ。

春は走る、逃げるように去る女神の季節。
新緑の喜びを寿ぐを厭うことがなくなったのは――ああ、そうだ、あのときから。







「おめぇしかいねぇのか」

突然声がかかたのに、反射で振り向いたドアの先、薄ぼんやりとした暗がりの中に、『それ』がいた。

「あー、ボスさんかぁ。悪ぃなぁ、今ルッスはいねぇんだぁ。……どうしたんだぁ珍しい」
「ちっ」

舌打ちするのは癖のようなもの、そういえば夕べ、長い仕事が終わって戻り、報告書を出して部屋に戻っても、朝までぐっすり眠れたのは、この男が声をかけてこなかったせいだということに気がついた。

「茶くらいなら入れるぜぇ?」
「紅茶か?」
「そのほうがいいんだろ? 目が腫れてるぜぇ」
「しかたねぇな、我慢してやる」

赤い瞳に覇気がない、今日も朝早くから、面倒な仕事をしていたんだろう。

二十代も半分を過ぎて、いよいよ男ぶりの増した精悍な顔立ちが、疲れてやつれているのにも、それも一層、なんだか、ひどく色っぽいものだと、スクアーロはそんなことをふと、思う。

ソファに座る動作は重い。疲れているのがそれだけでも知れる。
普段は部屋から出てこないのに、今日は珍しく出てきたのは、よほど煮詰まっているのだろう、そんなことを考える。
顔色はあまりよくない。
顎のラインが少し削げていて、もしかして食事もあまり進まないのかと考える。
それとも時間をかける余裕もないか、それはかえって能率を下げるのではないのか、と考える。
湯を沸かし、茶葉を準備してポットを温め、何か菓子を、そう思いながら冷蔵庫や戸棚を探せば、きちんといくつか、準備されているのを発見して、さてどれにしよう、と悩む時間すら与えられた。流石に長年、彼らの面倒を見ているだけのことはある……と、ルッスーリアの気遣いに感心する。
普段はあまり甘いものを好まない彼らの王であるけれど、流石に今日は唇とシナプスにそれが必要ではないかと、スクアーロは戸棚の中の包みを開いた。

ふつふつと湯が沸く。
そうなれば、まだほんの子供のころ、きちんと茶を入れるくらい出来るようになれと、今そこで茶を待っている男に、殴る蹴るの暴行を受けながら、覚えさせられた正確な手順で、恭しくも厳かに、最高の一滴を白磁に垂らすことになる。
白磁を暖め、カップを暖め、沸騰した湯を空気を含みながら注ぎ、静かに蒸らす。
ジャンピングの時間を待つ。
トレイに載せて前に出し、時間をきっちり、見計らってカップに注ぐ。空気に反応して、水色が赤く、冴えるのを見る。完璧。黄金の一滴まで、きちんと注ぐ。

「待たせたなぁ」

スクアーロの声に一瞬、目の前の肩がびくりと震えた。今一瞬意識トんでたんだな、そう考えればそれはつまり、朝早くからではなく、昨夜からずっと、仕事をしているのだろうか…とも思う。

「夕べは寝たのかぁ?」
「寝た」
「ホントかぁ?」
「本当だ」
「ベッドでかぁ? ソファに横になるのは寝たとは言わねぇぞぉ」
「う、あぁ」

即答でSiがないのは肯定の意味、ああやっぱり寝てねぇのか、そう思えば声が沈む、その気がなくても沈んでしまう。

「少しは休めよぉ」
「休んでる」
「本当かぁ? なぁ、俺今日暇だから手伝おうかぁ?」
「おめぇなんか出来ることあっか」
「全部おまえが目を通す必要はねぇだろぉ? 書類の仕分けくらいなら出来るからよぉ」

答えるのも面倒そうな、その視線がふと、テーブルの上の皿から一枚、菓子を手にとって口に入れる。
さくり、軽いウエハースに包まれた甘いバニラの香り。
簡単でシンプルな味に、眉間の谷が少しは浅くなるのが見える。

「……甘ぇ」
「目が覚めるだろぉ?」
「クソ甘ぇな、歯が浮くぜ。……?」
「なんだか懐かしくってなぁ」
「あ、……あ?」

軽い歯ごたえの甘い菓子、国内では有名な、子供なら誰も知っているその味は、遠い昔の思い出の味でもある。
それはスクアーロには十年近くも昔の話、ザンザスには少し前の話。

「そこの中に置いてあってよぉ、なんだか懐かしくってなぁ。…覚えてねぇか?」
「……相変わらずガキくせぇ味覚だな」
「ベルに出すつもりだったのかもしれねぇけどよ」
「かもな。……懐かしい味だ」

昔これはよく、御曹司の部屋のテーブルの上、勉強の合間に口にする菓子盆の中によくおいてあった。
監視をかいくぐって窓の外、忍び込んできた銀色の子供は、勝手に盆を開け、勝手にそれを口にして、うまいうまいと言っていた。
口の周りを砕けたウェハースの、細かい粉で真っ白にして、馬鹿みたいに笑うのに、手を伸ばして回りを舐めたら、あわてて真っ赤になったのも、それはそれは懐かしい思い出。
ザンザスには少しばかり前の話、スクアーロには昔の話。

「カプチーノが好きだったよなぁ」
「バニラは甘すぎる」
「だよなぁ」

そういいながら、けれど赤眼の男は盆の上、盛られた白いウェハースを、唇に運ぶことを止めはしない。本当に疲れているのだろう。
大丈夫かなぁ、と思いながらスクアーロはそれを眺める。



最近、ようやく、スクアーロはザンザスを目で追うことをしなくなった。

ザンザスが『戻って』きてからはかなり長い間、スクアーロは自分の視界のどこかにザンザスがいるときはいつも、ほとんど無意識にザンザスの姿を追っていた。何をしてもどこにいても、目がザンザスを追いかけることを止められず、意識していないとすぐに、その一挙手一投足全てを、ひとときでも見逃すことが出来なくなってしまっていた。

それは部下が上司を見るという意味を逸脱している。
護衛が看視対象を見ているというのとはわけが違う。
視線に重みがあるとしたらそれは重く、視線に温度があるとしたらそれは熱いだろうと、余人にもわかる程度には。
スクアーロはザンザスを見ていた。
見つめていた。
見守っていた。
ただ、見たかった。


八年の間、会いたくて会いたくて仕方なかった人間が、生きてしゃべって目の前にいて、食べて歩いて話しかけてくる、ということに、本当に長い間、スクアーロは慣れることが出来なかった。
再開の秋、病室の冬、謹慎の春、監禁の夏を経て、ようやく一年の季節が巡った。365日、毎日ザンザスがそこに「いる」ことを確認できるようになった。それを過ぎてようやく、スクアーロはそうやって、ザンザスをずっと見ていなくても安心できるようになった。長い時間だった。とても長い時間だった。
そんなスクアーロの態度に、幹部の誰もが驚いていた。
だが考えてみれば、彼らはつまるところ、まだ出会ったばかりなのだ。
出会って一年、そして二年、ようやく相手の存在を受け入れて、楽しめるようになる時期だ。半年のインターバルから、実はようやくここから始まったようなものなのだ。毎日毎日、相手の全てを知りたくて、全神経を使っている、その真っ最中ではないか――まだ、始まったばかりなのだということに、二人以外の誰もが気がついた。

「レモンはねぇのか」
「あ? ……ああ、見あたらなかったぜぇ…、ティラミスと、ココアクリームはあったけどなぁ……」
「………」
「あんたレモンとか……あ?」

言いながら、ふっと何かひっかかるものを感じてつい、隣を見てしまう。屋敷の主はスクアーロを見てはいないが、しかし指で菓子を掴んで、食べるわけでもなく弄繰り回している。その構図まで、見覚えがあった。

「…覚えてたのかぁ…?」
「思い出した」

覚えるほど昔の話ではない。ただ思い出しただけのことだ。ザンザスにとっては、それだけのこと。
けれどそれは昔のこと、ザンザスの中では数年前のこと、スクアーロの中では10年前のことだ。
まだ後ろ髪が跳ねていた細い子供が、ボンゴレの本部の一番奥、表に通じることのない最奥の部屋へ忍び込んでやってきて、そのテーブルの上のお菓子を食べながら、そんな話をしたことを覚えている。
好きな味の話をしたことを覚えている、それを味わったことを覚えている。
まだ額にも頬にも怪我のなかった、赤い瞳の御曹司の食べるものを全て、毒見してやるといって口にしていたことを思い出す、思い出して懐かしい気分になるには少し、近しい記憶に口元が緩む。
 
「………」

何かを言いたくて、しかしふさわしい言葉を思い出せなくて、隣で銀の魚が口ごもる気配。
どんな顔をしているのかと思ってそれを見れば、予想以上にふんわり柔らかい視線と、少し色身の増した頬がザンザスの視界に入った。
寒い冷たい冬の色ばかりの、その男の肌の上にも春の光が差し込んでいて、どこか暖かい気配が漂う。

「少し眠ったほうがいいぞぉ…?」

伺うような声に、知らず口元が緩む。
視界も視線も記憶も、光の中で溶け合ってひとつになったような気がした。
昔口元を白くして、うまいと菓子をむさぼっていた子供がそこにいた。
今はそんなことはしなくても、赤い水色を薫り高く淹れる大人になってそこにいた。



春だ。

春が来たのだ。



















「ボ、」




バニラクリームはやっぱりクソ甘いぜぇ、とスクアーロは思った。
二人の間でウェハースのもろい形が崩れ、最後はスクアーロがそれを飲み込んだ。
飲み込む音が妙にリアルだった。
ぎゅっと閉じていた目を開けた。


「明日」
「あ?」
「明日出かけるか」
「へ?」
「黙ってエスコートされてろ」
「は?」
「仕事は終わらせる。明日はオフだ。ついてこい」
「あ? ぁあ、何か用があんのかぁ?」
「カレンダーを見ろ」

それだけ言ってザンザスは立ち上がった。
来た時よりはずっと足取りがしっかりしていた。
顔色が少しよくなっていて、スクアーロは安心した。
少しだけでも休憩になったようで、よかった、と胸を撫で下ろした。

「あ、手伝うぜぇ」
「いい。終わる」
「いいのかぁ?」
「それより」

ドアに手をかけてザンザスが振り向いた。
伏せた睫毛の影が、目元に落ちて薄い影になった。
今日は光が強い。
睫毛の影に隠れたザンザスの、赤い瞳はよく見えない。


「明日はちゃんとめかしこんで来い」

ぱたんとドアが閉まる。
それを聞いてようやく、スクアーロは先ほど言われた言葉を思い出す。
あわてて部屋の中を見渡す。
カレンダーがどこかにあるかと思ったのに、見つけようと思うと見つからない。
どこだったか、色々思い出して眺めるが見つからない。
けれど数字は見た覚えがあって、色々思い出しているうちにキッチンにカレンダーがあったことを思い出した。
立ち上がってばたばた、キッチンへ向かう。肝心の数字を探す。


冷蔵庫の脇に下がっていたカレンダーの、中ほどに何かが書いてあったのを、ようやくきちんとスクアーロは読み取った。
ルッスーリアの字は、彼女の体格の割に小さくて丸く、少し右に傾いていて、癖があった。


 
「え、…明日…? ってぇ……??」




ぼんやりしていた頭が急激に覚醒する。
部屋に残っている甘い甘いクリームの香りが急に強くなる。
見開きすぎて目が乾く。
自分の睫毛が上下する音が聞こえて、スクアーロはびっくりする。

さっきの行為を思い出す。
ボスの手にあった菓子が唇を経由して、喉に落ちた過程を思い出す。
甘い甘い舌の感触を思い出す。
押し付けた顎の内側を思い出す。
至近距離で目を閉じる一瞬、赤い瞳が、黒い、びっしりと生え揃った睫毛に、ゆっくりと隠れるのを見たことを思い出す。
別に押さえつけられたり押し付けられたわけでもないのに、抵抗ができなかったことを思い出す。
背中を支えていた手の厚みを思い出す。

耳の裏側が燃えてくる。
体の内側に火がついたことを感じる。
首の後ろにもそれは飛び火する。
シャツに包まれたうなじから肩から、脊椎へと火がついてしまったことを感じる。
それは止めようがない。
それを消す水はない。
スクアーロの中の雨は蒸発してしまった。
もうそれは消えない。
きっと一晩、それはスクアーロの体の中で燃えている。
それを消すのは水ではない。
同じ炎、それよりもずっと強い赤い炎にあぶられるまで消えることはない。

13の数字の上の丸のしるしに、スクアーロの頬にも火が移る。
ぼうっと燃えるように色づく。
それがスクアーロを人にする。
子供から大人になった銀色の、長い髪の間の頬に色をつければ、それは一層、顔立ちを輝かせる色彩の魔術。




きらきらした春の日差しは、また少し明るくなったようだ。
薄くかかっていた雲が消えてゆく。
光が反射したスクアーロの銀の髪は、中から光輝いているように見える。
髪も肌も中から光っているように見える。
一番美しい時代に入ろうとする青年の、そのきざはしを知らしめる。








あした、スクアーロは24歳になる。

拍手[0回]

今夜こそ殺してやる

死ぬかもしれない。

そんなことを思ったのははたして何年ぶりだったのか、スクアーロは考えようとして、止めた。
無駄なことはしない主義だ。いままではそうだった、ずっとそうだった。
でも。
もしかしたらこれは違うんではないのか、これはいままでとは違うのではないのか。
そう思うことが不思議で、だからそれを知らないふりをしてやりすごしたいと思う。

死ぬかもしれない。
今だって、心臓の鼓動がほら、こんなに早い。

病気になりそうな予兆もないし、一年に一回ある健康診断ではどこにも異常は見当たらなかった。スクアーロは片手が義手なので、普通の人よりも頻繁に医務局の世話になることが多い。激しい任務でガタが来ると、それこそ生死の問題にかかわるし、体を使った接近戦のスタイルで戦うことがメインなので、どこか異常があったらすぐに、検査して治すようにしている。
鮫に食われて引き裂かれた腹の傷も治ったし、手足の怪我もすでに治っている。骨折した足に入れたボルトはこの前抜いたばかりで、そのためのリハビリもしまくったが、それだって終わって、今は至極健康。

争奪戦が終わって一年半が過ぎて、最初はひどく荒れていたザンザスも、今はすっかり落ち着いて、監禁されていたヴァリアーの幹部も皆戻って、任務は普段通り、監視や護衛や情報収集の任務が多少は増えたかもしれないが、やはりすることは人の暗部を暴くこと、人の暗部をさらすこと、知られたくないことを知った人間を、すみやかに処分して世界からいなくなってもらうようにすること、だという仕事の内容は、基本それほどかわってはいない。

だからこそ一層、ここ最近の体調が信じられない。

異常はない、どこにもおかしいところはない。
なのになんだ、この心臓の激しい動悸、意味もなく熱が出る、食欲がまったくなくなる、記憶が抜ける、脳味噌の動きまでも止まってしまって、どうにもならなくなるなんて、それこそ。

本当におかしい。

本当に。






死ぬかもしれない、と思いながら、スクアーロは長い廊下をとぼとぼと歩く。
普段はもっと歩く速度は速い。こんなにゆっくり歩かない。足音だって消したりしない。
けれど今日はそのどれも、やろうという気にまったくならない。
どうしよう、本当に、どうしてくれよう。
二回ドアをノック。珍しく、返事が来るまで待つ。
少しの間があって、入れ、と促される。
返事はこんなに時間がかかったのだろうか、などと考える。


「報告書持ってきた」
「ああ」

赤眼の王様は表情も顎に手をやり、肘をついて机の上の書類を眺めている。
いつもの通り。
いつもの通りだ。
いつもの通りなのに。
スクアーロはいつもの通り、報告書を手にして、王様の机の前に立つ。
右手に持った紙を出す。投げやりにザンザスが手を伸ばして、その大きな掌に、書類を落とすのもいつもの通りだ。
落とした先の掌を、ああ、なんて分厚い掌なんだろうなぁ、と眺めていたのを除けば、それはいつもの通りだった。
ザンザスの掌は厚みがある。
そして、それに反して指が長く、間接が細い。
炎を宿している掌は、中央が分厚く、周辺に行くにしたがって薄くなっている。長い指と長い爪、しかし指先は固い。鉄を撫でているから、関節が細いように見えて、その実はしっかりしていて、手首のあたりまで、掌は金属のように重いのだ。
その指先に、自分の手が触れたような気がして、スクアーロはぱっと手を離してしまった。どうした、とでも問いかけそうな瞳が、じろりと下から見上げてくる。

「なんだ?」
「いや」

話を続けられない。ザンザスはそのまま、じっとスクアーロを見つめ続けているのがわかる。
なんで、と思いながらそれを見返して、視線が合ったとたんに、スクアーロはまたもや死ぬかと思った。

ザンザスが笑ったのだ。

目元を少し緩め、分厚い唇をすこし、ほんの少し開いて、甘い吐息を吐き出すのを、スクアーロは見てしまった。
そうなったらもう駄目だ、スクアーロはまたもや今日も、死にそうな気分になり、死にそうな状態になる。耳の後ろが急に熱くなる。心臓の鼓動が早くなるのがわかる。踊るようなその鼓動が早すぎて、息をすることが出来なくなってしまう。
苦しい。息が苦しい。
口を開けてなんとか、呼吸を取り戻そうと細く息を吐けば、次に息を吸うことも出来なくなりそう。
きっと今自分は相当醜い顔をしているに違いないとスクアーロは思った。
それほど何もかもが駄目になった。
ザンザスがただ笑った、それだけで。

「あ」
「どうした?」
「いや、……なんでもねぇ。じゃ」

駄目だ死ぬ。
このままだったら死ぬ、きっと死ぬ。
スクアーロはそう自覚した。
そのうち自分は死ぬに違いない。
ザンザスを見ているだけでこんなに苦しいのだから、そのうち本当になにか、死んでしまうようなことが、起こってしまうに違いない。
踵を返すスクアーロの背中に、かすかな含み笑いをしたザンザスの声が追いかけてくる。

「夕飯の後で酒もってこい。いつものやつ」
「あ? 酒…? ……んなもん、他の」
「おまえが持ってこい、スクアーロ」




心臓が止まる。

今確実に心臓が止まった。

俺は死んだ。死んでしまった。


名前を呼ぶなんて反則だ、なんでここで名前なんか呼ぶんだ、ありえねえだろマジで、俺を殺す気なのかボスさんは、駄目だ絶対俺できねぇ、無理無理ムリムリ!!





「……わかったよぉ゛」




なのになんで。

なんで口は勝手にそれに、Siって答えたりするのだろうか。
ありえない。
マジでありえない、この状況。
おかしい。
本当におかしい。
なんでSiって答えるんだ俺! 
そこはなんとでも言ってやめとけ!
スクアーロの中でスクアーロが叫びながら、自分の答えを今すぐ撤回させようとする。
そうだ、今すぐ「休みたいから」とでもなんでも言えばいい。
行かない、といえばいい。
そうすれば、まだ自分は死ななくてもいいかもしれない。

けれども。



「ボウモアの10年、ロックでいいかぁ?」
「ああ」


ザンザスはそう答えて、また少しだけ、唇を緩めて笑う。
もしかしてそれ流し目っていうんじゃねぇのかぁ、俺になんかそんなことしていいのかぁ、そう思いながらこくん、と頷いてしまう自分がどうにも、苛立たしい。

「後でな」

ひらり、その長い細いセクシーな指が宙を舞えば、スクアーロはもう、何も答えられずに唇を噛み締めて、部屋を出て行くしかないことも知っている。なんてズルい男なんだぁ、ボスさんは、……そんなことくらい、嫌というほどスクアーロは知っているけれども。



くるりと背を向けて部屋を出て行く、その薄い背中を見つめるザンザスの、目元にはとろりと甘い蜜の香り。
唇には砂糖菓子のような悪戯っぽい微笑み、さらりと銀の髪がドアの隙間を抜けてゆくのを、大変惜しそうに見送って、手にした書類を机の上に放って置いた。
心臓の鼓動が早くなりすぎて、動けなくなりそうだとあわてながら、立ち去る姿が愛らしい、などと思いながら目を閉じる。息を吐く。ゆっくり吐いて、ゆっくり吸う。

なんてことだと思いながら息を吐く、ザンザスは自分の頬を手で触れる。
そこはずっと熱く、きっと赤く、燃えるように熱を持って、炎を抱く掌よりずっと、赤く激しく燃えている。
気がつかなかったのかと思いながら息を吐く、背中がじっとり濡れている、脈拍が速いことは自覚している、足の裏まで血流が増して、膝が机の下でがくがく震えている。

「あのカスザメが」

そう口にするだけで心臓が跳ねる、なんとか勇気を振り絞って口に出した命令に、Siと答えてくれたことを、心底安堵して息を吐く。

今夜こそきっと殺される、あの存在が自分を殺す。

そう思いながら息を吐く、あれが傍に来て、あれを見ながら酒を飲めば、それこそこの世の天国、地獄、極楽さえもわが胸もうちになりそうな、そんな心地に胸が、弾むというよりはもっと凶暴な力で唸る、恐ろしいくらい唸って叫ぶのが怖いほど、そうだ自分の心臓の、鼓動の早さに死ぬかもしれないと、そんなことすら考える。

前はそんなことはなかった、そんなことを考える余裕もなかった。
かけらもそんなことを思わなかった――いや、そんなことはない。
気がついていた、なんとなくそうは思っていた、けれど自覚したのは本当に最近、去年の秋に始めて―――そう、初めて二人で誕生日を迎えて、スクアーロが確か、そうだ確か、「俺オマエの誕生日、ちゃんと祝うの初めてなんだぜぇ」と言ったのを、聞いたときに初めて、世界の扉が開いた音を、聞いた気がした確かめた。

スクアーロがそう言った。
少しだけ眼を細めて笑った。
薄い唇がやけに赤かった。

それを見ているうちに突然、ああ、こいつやっぱり綺麗なんじゃねぇのか――と、そんなことをぼんやり、思いついたらもう、そうしたらもう、何かいままで、世界に色なんかついてなかったみたいになった、突然世界がカラフルになったのを、世界が違うものになったのに気がついた。
驚いた、そうだ本当に驚いた、たったそれだけ、スクアーロが綺麗なのだと気がついた、ただそれだけ、それだけで、世界は本当に色鮮やかに明るくなった。毎日見ている壁紙の中にバラがちりばめられていることに気がついた、グラスにぶどうの蔓が絡んでいることに気がついた、書類の透かしの模様が、綺麗な書体だったことに気がついた。

たったそれだけでよかった、それだけで、スクアーロが綺麗なのだと思っただけで、自分はスクアーロのどこを見ていたのかと思うほど、スクアーロの何もかもが全部、新しくて綺麗で眩しくて鮮やかで、それこそ何かの魔法でも、かかったんじゃないかと思ったくらいだった。


これは確かに魔法というやつだ、誰もとくことができない魔法、相手がかけたはずもない魔法、これは確かに、恋の魔法に違いない。
恋の魔法は致死量の毒薬だ、判断力を失わせ、意識を奪い、心臓を乱して体調を崩させる。世界が自分とその相手だけになる、どんなことも幸福に繋がる錯覚をしてしまう、理性を奪い世間体を失わせ、まがい物の幸福に全てを、いままで過ごした人生全てをかけてもいいような気にさせてしまう、それこそ本当に魔物のような毒薬、それにかかった、スクアーロという魔法に魅入られて、今も息がたえだえ、ただ顔を見ただけで死にそうになっている。

毒薬を抜く方法はただひとつ、同じ量の毒薬を、相手に投与するしかない。
殺される前に殺せ、それは彼らの不文律、もちろんザンザスはそれを、相手に適することを厭わない。


興奮した汗で、じっとり湿った掌を握りこんで、ザンザスは大きくはぁっと息を吐く。

どうしてくれようあの馬鹿な男、俺に致死量の毒を流し込んだ鮫の血を、どうやって俺はすすって屠って舐めてくれよう、覚悟していろスクアーロ。




可愛い可愛いスクアーロ、今夜こそ、おまえを根こそぎ殺してやろう。

拍手[1回]

いないいないばあ

毎日それを考えているわけじゃない。

眠いときに眠る、起きるときに起きる。
仕事をする、体を鍛えるために走る。
汗を拭く。
着替える、
洗濯をする、シーツを替える、ベッドカバーに穴が開いているのを見つける。
まとめたリネンを持って廊下を歩く、なんだかしきりと雨の匂いがする。外は晴れているのに。

一階の部屋に持っていく、ここで暮らしている限り、洗濯の心配をしなくていいのはありがたい。昔住んでいた部屋は日当たりが悪く、シーツがなかなか乾かなくて、洗濯のロープを引っ張り上げるのが、ガキだった俺にはとても大変だったんだ。洗濯バサミは固くて、俺の指が挟まったらちぎれるんじゃないかと思うと怖かったっけな。でも屋上でそんなことをしていたんだから、きっと母親がいて干していたんだろう。
なんでそんなことを思い出すんだろう。この屋敷で掃除と洗濯をしてくれているのは年配の女で、いつも静かに床を磨いている姿しか思い出せない。そういえば俺の母親はどんな女だったっけ?

ベルフェゴールのために朝食を作るのはルッスの役目、昼は俺の役目。いないときはいるほうがやる約束。面倒になると出来合いのものですませるけど、ベルはなかなかそんなものを口にしないから、結局は食べさせるために食事を作る。たまねぎを刻む。ジャガイモを刻む、セロリを刻む、ズッキーニを刻む、トマトを刻む。今はほとんど指なんか切らない。

道具を引き出す。粉とフェルトとクロス。刃物を磨く方法はほとんどひとつきり。水分をかけて砥石で磨くだけ。でも素人が出来るの刃こぼれを起こさないようにすることと、油や水分を取って綺麗にすること。
血糊はちゃんと落としたが油が残っている。クロスで拭いて、粉を振る。もう一度クロスで拭く。光に透かして油が残っていないかどうかを見る。残っていたら粉を振ってクロス、その繰り返し。終わったらフェルトでぬぐう。ムラや汚れがないことを確かめる。
終わったら接続の金具を調べる。緩んだ部分を締め直す。油を差す。

それが終わったら今度は自分の手を見る。布を解く。義手を動かす。駆動部分を何度も動かす。音が少し濁っている。折れた状態にして油を差す。もう一度動かす。今度は澄んだ綺麗な音がする。きしみの音が聞こえなくなったので安心する。
元の位置に戻して、手袋を嵌める。装着部分も点検。生身との接合部分が蒸れて、少し被れている。今日は外して、寝る前にクリームを塗っておかないとまずいかもしれないと思う。

毎日それを考えているわけじゃない。

静かな部屋には外の音が入ってこない。窓は防弾ガラスで、二重のペアガラスになっている。音は聞こえないし、寒さはあまり感じない。人が一人いるだけで、ストーブを燃やし続けているだけの熱量が空気中に放出されているのと同じだから。もっとも、そんなに寒いとか思わなくなったのは、たぶん春になっているからなんだろう。
耳が何かの音を拾う。窓の外の外壁に何かが落ちる音。

雨だ。

雨の少ない国の、少ない雨の記憶が流れ込んでくる。すうっと、薄い刃物を皮膚の下にすべりこまされたような寒気を感じる。
危ない。心臓を抉られる。

ひやりとした指先がうなじに触れる感触を感じる。ありえない。ここには俺しかいない。
指先は熱い。水で濡れている。だが中から燃えるように熱い。
気配を感じる。背中にいる。それは振り向くと消えてしまうものだということを俺は知っている。最近はとんと来なかったから忘れていた。
背中にそれはいる。圧倒的な熱量、触れれば焦げるような意識、存在感の圧力に息も出来なくなり、紅蓮の瞳が矢のように心臓を射抜く怪物がそこに立っている。
それは振り向いたら消えてしまう。振り向いた途端、それはないものになってしまう。振り向かなければあるかもしれないと思えるけれど、振り向いたら確実になくなってしまうものになる。
それが心臓の上に薄い刃を差し込む。

ひやりと血が凍る。脊髄を冷たい冷たい絶対零度の熱が突き抜けてくる。頭の後ろから頭蓋骨を、大きな手で掴んで揺さぶってくる。体の中に落とさないように止めていたいろいろなものが、振り落とされて落ちてしまうのをこらえる。けれどそれはいつまでも俺の頭を振り続ける。気持ちが悪くなる。息を吐きたくなる。吐いたら負けだ。息を吐いたら吸わなくてはならなくなる。吸ったら力が抜ける。吸ったら緩む。緩んだら落ちる。
何度か波が来る。こらえる。何度も音がする。
波が寄せてくる。何度も寄せてくる。何度も。

座っていられなくなる。刃の道具を脇によけるのが精一杯で、床に頭を押し付けて背中を丸める。息を大きく吸わなくてもいいようにする。息をつめて細く吐き出す。
細く吸う。頭がくらくらする。
これは発作のようなものだ、と思っていたこともある。病気だ、病気なんだ、どんどん重症になって、発作が何度も来るようになって、そのうち俺は死ぬんじゃないかと思っていた。
おかしなことになかなかそうはならなかった。

息を吐く。
背中を震わせて細く息を吐くなんて、まるでセックスで絶頂に押し上げられたときみたいじゃないか。


波に呑まれる。
息を吸う。吐くために吸う。吸わなければ息が出来ないから吐く。
耳の後ろで声がする。俺の名前を呼んでいる声が聞こえるが、それは俺の気のせいなのだと知っている。目を閉じている間はそれは囁いているかもしれないと思っていられる。
振り向かなければ、そこにいるかもしれない可能性があると思っていられる。


そんなことはない。

すっと何もかもがひいてゆく。
満潮の時間が過ぎたのだ。
首の後ろで触れていたような気がする、その気配も吐息も体温も消えてゆく。
もういない。いなくなった。いなくなってしまった。

いつも思っていることはない。毎日の生活はそれなりに忙しい。金があってもなくても忙しい。仕事はなくてもあるものだ。だからやっぱり忙しいと思っていることにしている。それでいい。いつもなら。

時々こうして波が来る。遠い遠い記憶の底から波が来る。満潮になる時間が早いときもあれば、遅すぎて波が引いてしまうこともある。昔はずっと満潮だった。最近はそうでもない。
そうでもないが、最近は足がつかなくなった。
流されて、どこか遠くに運ばれてしまいそうになる。そうなったらおしまいだ。もう波は引かなくなってしまう。波の中に埋もれて、本当に魚になってしまう。

まだヒトでいたい。まだヒトでいたい。まだヒトでいたい。まだヒトで待っていたい。まだザンザスを待っていたい。まだヒトでいたい。鮫になりたくない。

「………ッ……!!」

名前を呼ぶことは出来ない。口に出すことは出来ない。約束はまだ果たされない。眠りはまだ終わらない。時間はまだ来ていない。その時はまだ来ていない。力が足りていない。まだ足りない。いまはまだ。いまはだめならそれはいつだ。いつだ。いつだ。いうだ。いつだ。

ザンザスが、目覚めるのはいつだ。

波にのまれたい。波にのまれたくない。波にのみこまれたい。波にのまれたくはない。あいたい。あいたくない。あいたい。あいたくない。あいたい。あいたくない。あいたい。あいたくない。あいしてる。あいたくない。あいたい。あいしてない。あいしてる。あいしてない。あいたくない。

あいたい。

ザンザスにあいたい。
ザンザスをあいしたい。
ザンザスにあいたい。
あいたい。

毎日それだけしか考えられない。
毎日それだけを考えているわけじゃない。
死んでも傍にいけるわけじゃない。
死んだらラクになれるわけじゃない。
死んで楽になりたいわけじゃない。






あいたい。








夢の中ではもう、あいたくない。

-----------------------------------
20過ぎくらいの鮫。発作のように悲しくなる、春の憂鬱。

拍手[6回]

SpringBLUE

「ママ」
手を伸ばした。誰かに。
声が聞こえた。かすかに。
手を見た。小さかった。とても。

自分の声で目が覚めた。

伸ばした手は子供の紅葉の手ではなかった。骨ばった、間接の目立つ、指先のかさついた、大人の、ただの男の手だった。輝きの変わらない指輪だけが光っていた。

枕元が冷たかった。

今なんといった。
今なんと呼んだ。
今なんと、口にしたのだ。

まだあの女のことを忘れていなかったことに驚いた。
最後に会ったのはいつだったのか考えようとしたが、それはあまりに昔だった。一生懸命数を数えた。驚いたことに、それはもう30年も前だったのだ。
そんなに時間がたっていたことに驚いた。

ほっと、自分でもど驚くほど大きな音でため息をついてしまった。肺に空気が入ってくると、頭がクリアになってきた。ここがどこなのか思い出した。馴染んだシーツ、馴染んだスプリング、部屋の空気、リネンに染みた匂い。
目元を指で触る。冷たかった。頭の位置を替える。耳の後ろで髪が揺れる。

「あ、……」

声はもう、子供の声ではなかった。大人の男の声になっていた。自分の声変わりの前の声など、覚えてもいないはずなのに、どうして夢の中では聞こえてきたのだろう。
手を伸ばす。握って開く。すでにこの手は子供の手ではない。すでに多くの死を、他人に預けてきた手だった。
それでもまだ、母親のことが懐かしいのか、恋しいのか。

寝返りを打てば、まだ隣で恋人が眠っていた。
無邪気な顔をして、やすらかな寝息が聞こえてくる。
こうして隣で朝と晩、寝る前の最後の顔を見て、起きるときに最初に顔を見るようになって何年たつのだろう。
十年は過ぎているはずだ。

結局このまま、人の親にはならないまま、死んでいくのだろうと思うけれど。
それを寂しいと思うことも、たぶん時々あるのだろうと思うけれど。
母親にも父親にもならない人生が、惜しいと思うこともあるだろうけれど。

こいつに会えた人生は、悪くなかった、と今は思う。
結局は最後に残ったものが勝つ。
生き延びていることが、人生ということなのだろう。

昔は悪い夢を見ると、必ず一緒に起きてきて、ひどい顔で抱きしめてきたことがよくあった。
小さい声で詫びられるのが、悲しいのか、寂しいのか判らなかった。
今はもう起きてこない。寝ていることに安心するようになって、起こさなかったことを安堵するようになって、寝顔を見ているとすぐに眠れるようになった。
悪い夢もすぐに忘れるようになった。
それが対価であり、退化であるかもしれないが、しかしそれでもいいのではないかと、そう思えるようにもなってきた。時間というものは圧倒的だ。一緒にいる時間の蓄積は、そこに感情が伴えば、その質量は相当なものだということが、判るようになった。

今朝は天気がいいのだろう。太陽の匂いがする。
恋人の寝顔を見ているうちに、眠くなってきた。
目を閉じて、少し距離を詰めると、嗅ぎなれた体臭を感じることが出来る。安心して目を閉じる。

朝食まで一眠り。ルッスの声が聞こえるまで、もう一度、夢を見ることにしよう。


-----------------------------------

思ったよりどっちでもいい感じになったような

拍手[7回]

これは神の甘露

「…んなことすんなよぉ…」
「黙れ」
「………だ、って……ひ、んっ!」

ぺろ、と真っ赤な舌が見える。見たくないのに見える。見てしまう。見ずにおられるわけがない。そうだたぶんどんなことだって、彼がすることを見ずにおられない。

スクアーロは珍しく、一人掛けのソファに座っていた。背もたれに体をよりかからせて、半分腰が抜けたような姿勢でだらしなく座っている。両手で顔を隠しながら、それでも足元を見ることを止められない。

スクアーロの足元には広い背中がある。大きな広い背中がある。いつもはその背中に、手を回すことをするのも躊躇うのに、その背中が自分の、足元に膝をついているなんて信じられない。
そんなことをこの男にさせるなんてとんでもない。ありえない。貴人に膝をつかせるなんて、それは部下のすることではない。ありえない。

なのにこの男はそれをする。最初ソファに座らされたときは、このままここで抱かれるのかと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。……いや、そのつもりであることは、確かなのだろうけれど。

足の指が性感帯であると、教わったのはこの男からだ。足の指だけでなく、膝の裏、ふくらはぎ、かかとや足の裏さえも、この男が舐めて触れるところは全部、熱を生む源になることを知ったのは、この男がそこに触れたからだ。

「う、…うぅ…っ」

泣きそうな顔で足元を見る、スクアーロの頬は燃えるように赤い。がっしり掴まれた足は、なんとか逃げようともがいていたけれども、ボスの舌が指の間を舐めはじめてしまったら、もう1ミリも動かすことはできるわけがない。この男に怪我をさせることなど、出来るわけがないのだし、逃がすつもりもないザンザスの、掴む指は確実に、力の入るところを押さえていて、動かすことが少しも出来ない。

なんでこんな。こんなことに。

静かな部屋にかすかに、指の間を舐める音だけが聞こえる。犬が水を飲む音のよう、それが耳に入るだけで、スクアーロはもう、死んでしまいそうになる。心臓が信じられない脈動を打つ、体温が恐ろしいほど上がる。指が震える、力が抜ける。

「なんで、んな、こと……っ……」

涙腺が緩む。視界がぼやける。なんで泣きそうになるのかわからない。悲しいわけじゃない。じゃなんだ、いったいなんでこんなことになってるんだ。嬉しいのか? 嬉しいわけがない。

湿った音がして、ザンザスの舌がスクアーロの、小指を舐め終わって唇を離す。形はよいが少し歪んでいるスクアーロの爪と、ザンザスの舌の間に、細い糸の橋が架かる。

「なんでだと?」

長い黒髪の間から、赤い瞳が上目使いに覗き込んでくる。目のふちがほんのり赤くなっているように見えるのは、光の加減か、気のせいか。

「理由なんか決まってるだろ」

食われてるのか、といまさらながらにスクアーロは気がつく。もしかしなくてもいま、食事中だったりするのか…と、スクアーロは真っ赤な顔はそのままで、自分の足元に膝をつく男の顔をマジマジと見る。
ザンザスはいままで舐めていた足を、そっと、うやうやしいほど丁寧に床に置き、今度は反対の足を手に取る。ひくっと動いた足の指をちらりと見下ろして、掴んだ足を、ぐっと引き寄せようとする。先に脱がされた足は冷えていて、表面が少しかさついている。

「よく煮込んだほうがうまいからだ」

拍手[10回]

XSの日 まちでうわさのおおきなおうち・4

 そこで想像もつかない人の名前が出てきたのに、山本は素直に驚いた。なんでそこにその名前が出てくるのか、その関係性に目を見開く。ボンゴレ十代目の雲の守護者にして並盛財団の理事長、そして現並盛市市議会議員で県の市町村広域事業促進協議会の議長をつとめる、雲雀恭弥の名前が、なぜ。

「こいつは」

 セッティングが終わったのか、ザンザスが椅子を引いて座りながら、呆然とする山本に解説する。

「てめぇんとこの雲と、日本で三回も山行ったぜ」
「山? 山ってスクアーロ登山とかやってんの?」
「そんなたいそうなもんじゃねぇ。ちょっと行って登って景色見て戻ってくるだけだぁ」
「ふーん? そりゃ雲雀先輩は昔っから百名山とか好きで、近所の山は全部登ってる人だったし、一度はヨーロッパまで山登りに行ってたけど、……スクアーロもそういうのやってる人?」
「おめー、イタリアだって日本と同じで山ばっかなんだぜぇ。ハイキングが手軽な娯楽なのはあっちが本場だろぉ。なんつたって、イタリアにはアルプスがあるんだぜぇ?」
「あ、そっか」

 そう答えながら、地理に疎い山本は、脳内でイタリアの地図を拡げてみる。そういえば隣はスイスだった、何度か行ったことがある。国境が地上にあるという概念が乏しい日本人だということを、こんなときに少し感じる。

「ま、それは置いといて、食えぇ」
「ん、いただきます」

 両手を合わせてきちんと挨拶して、山本がナイフとフォークを取る。それを見てから二人も同じように、カトラリーを手にした。
 しばらくなんの音もなく、おのおので食事をすすめる。鶏肉のトマト煮込みは普遍的な料理だが、そのぶん作った人の裁量と技巧が問われる。スクアーロのそれはあっさりしているが妙に懐かしい味がして、山本は思わず感嘆の声を上げた。

「…おいしい!」

 満面の笑みで味を褒めれば、そうだろうとも、とでも言わんばかりに視線を返される。ワインが空いているのを注いでもらって、なんかすげーことになってるな、とうっすら思った。
 ボンゴレの、十代目にはなれなかったが、先代のただ一人の血縁として、ザンザスは長いこと、ボンゴレのもうひとつの象徴としてあり続けていた。
 生まれは確かに卑しい女の腹からだっただろうが、その後の数年に及ぶ一流の教育によって、純然たる上流階級のマナーを完璧に身につけたこの男が、よりにもよって自分で料理をし、あまつさえそれを他人に振舞っている、という事実は、結構、かなり、山本を驚かせることになった。
 二人の行動から、それはそれほど珍しいことではないようで、これが初めてでもないらしい。ザンザスに給仕をされる…なんて、イタリアに、ヴァリアーにいたころは、まったく考えもつかなかったことだ。
 人生には何があるかわからないな――と、改めて山本は思った。野球選手になるつもりだった俺が、マフィアのボスの跡取りにワインとか注いでもらってるとか、なんか……いろいろ、凄いことになってるというか……人生いろいろだよな、と思いながら、開けたワインがおいしくて、サーブされる皿の中身がどれも、彩り豊かで新鮮で、ああ、なんかいいなぁ、とぼんやり、そう思った。

拍手[9回]

XSの日 まちでうわさのおおきなおうち・3

 最後の仕上げの塩をひとふり、そしてソースを煮詰めてから火をとめ、少し味を馴染ませる。その間に皿をレンジで少し暖めて――そんなところに、カフェが入ったぞぉ、と一声。
 赤いエプロンをかけたスクアーロがリビングで山本の向かいに座って話をしている隣に座って、当たり前のように腰に手を回す。
 スクアーロはそれを当たり前のように受けて、ほんの少し、体重をザンザスの肩にかける姿勢を取る。
それを見て、ふっと山本の口元が緩む。

「これ最近人気がある店のラスクと、あとこれは煎餅。すっげーコショウが利いてて、酒のつまみにいいんだぜ!」
「そうかぁ? あ、おまえ今日車かぁ?」
「ううん、タクシーで来たよ。帰りもまた呼ぶから平気」
「そうかぁ? なぁ、こいつにも酒やってもいいかぁ?」
「客に振舞うのは当然だろう」
「そっかぁ! よかったなぁタケシ! じゃ付き合えよぉ!」
「なんだよ、昼間っから酒飲んでるのかよー、悠々自適だなぁ」
「今日はだらだらする日なんだぁ! ザンザスはいっつも昼間っから酒飲んでるけどなぁ!」
「最近はちゃんと日が暮れるまで待ってるだろうが」
「そうだったのかぁ?」
「日が暮れるまで外でふらふらしてるのはおまえだろう」
「日が短くなったんだからしょうがねぇだろぉ!」

なんだかんだ言いながら、話すスクアーロの腰に回ったザンザスの手は離れないし、ザンザスの太ももに摺り寄せたスクアーロの膝はくっついたままで、予想以上の熱々っぷりに、ほかの守護者よりは会っている回数の多いはずの山本も、なんだか少し、恥ずかしくなってくるような気配がしてくるのが、どうにもこうにも止められない。
そんなふうに自分も、妻を扱ったことあったっけ…と、山本は思い出そうとするが、並んで一緒に座ることも、最近はとんとしたことがないと思い返して、なんだか激しく負けている気がした。

年をとってもさすがに生まれた水が違うと改めて実感、カップルが並んで座ることの意味も、そこでどんな姿勢を取るべきなのかを知ってるということを含めても、さすがに日本と、習慣が違うと、毎度ながらそう、思う。
それにしても二人して並ぶ姿はまるで、一枚の見事な絵画のようだった。
若い頃から繰り返しているその姿勢に、山本は翻って反省する。
今夜は妻に優しくしようと思わずにはおられない、何かそんな力がある。

「あ」

スクアーロの腰を抱いていた手がするりと離れて、持ち主ごと立ち上がる。
まだ少し長い髪を首の後ろでまとめているのが、指先を追いかけてふわりと振り返る。

「おまえは話してろ。後は俺がやる」
「そうかぁ? じゃ頼むなぁ」

振り返ったスクアーロは着ていたエプロンを脱いでまとめながら、立ちあがって脇のフックに引っ掛けた。
フックのヘッドが赤と青、赤のほうに赤いエプロンをかけて、スクアーロが戻ってきて座る。
ああ、そうか、と思って一言、いまだに小僧扱いされている、二大剣豪のひとりが口を開いた。

「なぁスクアーロ、あそこのエプロンって、引越し祝いに笹川先輩が送ったやつ?」
「そうだぞぉ。よく知ってるなぁ」
「俺、ナニお祝い贈ればいいのかって、先輩に相談受けたのなー」
「そうだったのかぁ?」
「エプロンとかいいんじゃね、って言ったんだけど、色は知らなかったのな。でも、ちょっと意外だったのな」
「何が?」

首をこてんとかしげて人を、見上げるように見るのはスクアーロの癖のようなもの。
そんな顔をすると今でも本当に、どこかの人形のように見える灰青の瞳が透き通って、少しどきりとするのも、いつものこと。

「たぶん逆のイメージで選んだのかなーって思ってたからなのな。俺、スクアーロが青で、ザンザスが赤のイメージで話した記憶があるんだけど、スクアーロが赤いの着てるとは思わなかったのな」
「そうかぁ? そうでもねぇと思うけどなぁ」
「そうかもね。あのさー、ここにあるキッチンツールって、スクアーロが選んでるのな?」
「あー、? まぁそうだなぁ、俺が使うほうが多いからなぁ、俺が選んでるぜぇ。それがどうかしたのかぁ?」

「ふぅん。だと思った」
「なんだぁ?」
「んー? だって今もさ、……見えるとこに置いてある皿とかさ、…おたまとか、鍋とか、菜ばしとかがさ―、……見えるところにあるの、全部赤いのな―って思ったのな――」
「ああ、そういやそうだなぁ…。気がつくとつい、赤いの選んじまうんだぁ」
「赤ってイタリアの国旗の色だしね?」
「あぁ? そういやそうかもなぁ、気がつかなかったぜぇ! 大体、赤とか黄色とかのほうが料理がうまそうじゃねぇかぁ?」
「でもあんまり日本人って赤い道具選ばないと思うんだけど…最近はそうでもないのかなぁ?」
「そうかぁ? でも赤ってすげぇいい色だろぉ? トマトソースの色だしよぉ。赤が嫌いなイタリア人はいねぇぜぇ。俺は好きだけどなぁ」

「スクアーロがさぁ、赤が好きなのは、さ、……ザンザスの、瞳の色だから――だろ?」
「そりゃ当たり前だぁ!」

何を当たり前のことを聞いてくるんだ、とでも言わんばかりのスクアーロに、山本はつい、笑みがこぼれてしまう。
二人は仲良くやっているようだ。

そんな話をしていると、キッチンからザンザスがやってきた。
綺麗に二人の前を拭いた後、ランチョンマットを置き、カトラリーを置き、二人の前に前菜とサラダ、グラスにワインを置く。

「タケシぃ、これ、そこの畑で作ってるレタスだぁ。食ってみろぉ」
「えー、マジ? 家庭菜園やってるって聞いたけど本当なんだ!? うわーおいしそう、いただきます!」
「ドレッシングも作ったんだぁ」
「へぇー! すごいのな!」
「知り合いの人に教わったんだぁ! 後でお前んとこにも教えてやれぇ!」
「知り合い?」
「こいつは」

いままで黙っていたザンザスが口を開く。
山本は至極珍しいことがあるものだと思いながら、フォークでサラダの上のたまねぎを突き刺した。
口に運んだサラダは確かに大変おいしいが、なにぶん量が凄かった。
大変綺麗に盛り付けてあるのだが、皿がとにかくでかい。
味噌汁をよそる汁椀より一回りほど大きい。

これ本当に一人分か…? と思いながら山本はザンザスを見ていたが、全員の前に一皿つづ置かれたので確かにそのようだった。
前菜はトマトにモッツァレラチーズを挟んで、オリーブオイルに青紫蘇が散らしたものがたっぷりと盛り付けられている。分量も内容も、山本の腹には不足はない。
もう若くねぇんだからいい気になって食うんじゃねぇ! 動きが鈍くなったらどうすんだ! と、獄寺あたりから文句が出そうな量である。

「会合に出てはそこいらじゅうで、女をたぶらかしてきやがる尻軽だからな」
「たぶらかしてなんかいねーぞぉ!」
「ああ、悪かったな、女だけじゃなくて男もだったな、この淫乱が」
「向こうが勝手に声かけてくるんだからいいだろぉがぁ!」
「へぇ…そうなんだ…?」

その話は聞いたことがない。
本当だろうか、と思いながら、すぐにああ、そうだろうな、と山本は思い返した。

スクアーロはいつもまっすぐで、しゃんとしてて、綺麗なのだ。
外見が人形みたいに色がないから口を開く前はとっつきにくいだろうけれども、しゃべればすぐに、この男の輝きに、誰もが魅せられ、惹かれてしまうことだろう。
自分と同じように、鮮やかに。

「珍しいから気になるんだろぉ!」
「そんだけじゃないと思うのなー……。スクアーロ、いつもこんな感じなんだ?」
「ドカスはいつまでたってもドカスだ」

そういいながらスクアーロが開けたワインをグラスで受けて、うまそうに飲んでいるこの男の、それが最高の愛情の表現だと、知らないほどの時間をすごしているわけではない。
いつまでも変わらずの愛情を、示している言葉をこうやって時折、無意識か意識的にか、自分に漏らすのは――今でも少し、牽制されているのかもしれないと、思わないではないけれども。

ザンザスは案外――というかそのまま、というか――非常にさびしがりで甘えん坊で、スクアーロとは全然別の意味で、非常に愛情深い男なのだと、山本はよく知っている。
愛情が深いからこそ、その裏切りに耐え切れず、何もかもを破壊し、復讐しようとするほどには深く、愛するものを捨てきれず、忘れない男なのだ。
存在をまるごと全部、すべてを賭けてこの男を愛しているスクアーロと、過不足なく愛情の取引が出来るのは、世界のうちでもこの男しかいないだろう。

「ジャッポーネの女はやさしいからなぁ、俺がなんも知らねぇから、哀れに思ってんだろぉ」
「それで庭の木を持ってくるかよ」
「変わりにソースやってんだからいいだろぉ!」
「ハッ、……そんでまたジャムとかもらってりゃ世話ねぇ」
「いいじゃねぇかぁ! 食いもんには罪はねぇぞぉ! 毒見だってしてるだろぉ!」
「あー……」
 
このまま放置しておけば、自分を無視して延々と痴話げんかを続けそうだ。
適当なところで切り上げて、ザンザスが振舞う食事を味あわせてくれないかな――と、山本はそっと、二人の会話に口を挟む。

「ジャムとかソースとかって全部作ってるのか?」
「あぁ? ジャムはパンに毎日塗るからいくらあってもいいだろぉ! ソースだって同じだぁ! トマトソースを作るのは重要なイタリアの男の仕事なんだぞぉ!」
「…そうなの?」

何故かえらそうなスクアーロではなく、ザンザスに聞いてみれば、こっちもその通りだと言わんばかりに大きく頷いた。

手にもった大皿をようやくテーブルの上に置いてくれる。
前菜とサラダの後はスープだっけ? と頭の中ですっかり馴染んだコースを思い浮かべながら、しかし山本はスープをすっ飛ばしてメインが出てきたのに少しびっくりした。

「スープは後で出すから待ってろぉ。まずはメインのカチャトーラからだぁ」
「うわ、すっごいいい香り…。まさかこれも、作ったの?」
「自家製でも作ったけどなぁ、足りるわけがねぇだろ。これは多分トマト買ったやつだと思うぜぇ」
「え、ソースじゃなくてトマトのほう?」
「んー、なんか話つけてくれてよぉ、作ってるうちに直接、出荷出来ないトマトもらいに行ったんだぁ。それで作ったのはまだあるぜぇ。来年まではもつと思うぜぇ」
「…そんなに作ったのな?」
「本当は一年分くらい作っておくもんなんだぜぇ!
 俺も最初そんくらい作ろうかと思ったんだけどよぉ、ジャッポーネは夏の湿気が多いから夏を越えるのが素人だとちょっと難しいって、ヒバリに言われたからよぉ……」

拍手[5回]